- ーー小室さんの“外部から”には、候補として三浦光紀さんは入ってました?
- 小室
- もちろん三浦光紀さんを誘いましたよ。僕とともに行動をしてくれる人として誘ったら、三浦光紀さんは断ってきた。ベルウッドを辞めて、既にニューモーニングという新しいフォノグラムのプロジェクトも抱えていたらしいですね、彼は断ってきました。でも、フォーライフで作る僕のアルバムに関しては、ディレクターをやってくれるということになりました。フォーライフは結局、アーティストの中から社長を選びたいということで押し切られ、よく世に言われている、全員で投票ということになりました。
- ーー知ってます、それ。小室さん、自分で自分に投票したって(笑)
- 小室
- 無記名で、しかも「小室を社長にするのに反対か、賛成か」というマル・バツなんです。それはもうはっきりしてますよ(笑)、だったら僕もマルにしないとシャレにならない。とにかく一応投票しようと(笑)。
- ーー小室さん、時々背負わされるんですよね(笑)
- 小室
- 実動は各マネージャーが分担をし、僕が社長っていうのは肩書だけで、実務はしなくていいからって言われてたんです。それでも、社長というような肩書で出ていかなきゃいけないような場面があったりするのは後になって分かるんですがね。とにかく準備が整わないうちにスポーツ紙にすっぱ抜かれて、レコードの販売網もなく、それこそ工場は韓国の工場でプレスして、通信販売でやろうかというようなことまで覚悟をしました。そうこうしている内に、キャニオンレコード(現ポニーキャニオン)の社長だった石田さんが、「いいよ、俺のところでやるよ」って言ってくださって。今考えてみると、石田さんの温情、若い者に道を作ってやらなければいけないっていうのが、あったんだと思いますね。同時に、石田さんの政治的立場の中で、このレコード会社を立ち上げることに加担しておくことが、その後のビジネスの上で優位になるという判断もあったんだと思います。僕のフォーライフの印象は結局四人が四様でいっぱいいっぱいだった。そうすると、どのようなレコードをリリースしていくか、新人をどのようにプロデュースしていくかっていうことが手薄になる。ある方向に向かっての手綱をさばく人が必要だったんです。この手綱がどうも曖昧になってしまった。
- ーー実際に集まったときに、陽水さんのマネージャーの奥田さんで小室さんと同じくらいの年。あとの皆さんは全員年下ですね。
- 小室
- 経営的にもある種つんのめっているわけです。後藤さんにしても、拓郎さんで精一杯ですよ。ましてや、陽水や泉谷をっていうのはテイストが違うわけだから。後藤さんはどう扱っていいかなんてわからなかったと思うんですよね。
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