——フォーライフ設立について、これまで多くのインタビューに答えられて来たと思いますが、あらためてお聞きします。なぜ小室さんが、社長を引き受けたのか、設立時、4人の音楽家がメンバーになった経緯を中心にお聞きしたいと思います。
小室
最初のアクションは僕からです。当時マネージャーだった沖山が「小室さん、レコード会社を作らないかって話があります。資金は出すと言っている人がいるのでやりませんか」と僕に言ってきました。その時は「それはない」って応えたんです。けれど、その後思い直したんです。ビートルズの作ったアップルレコードのことが、頭の中にはありました。1970年頃の日本のレコード会社では、ことレコード制作に関しては制約がいっぱいあって、もっと自由に作りたいという思いがありました。キングレコードそしてベルウッドレコードの三浦光紀さんには、振り返ってみれば随分自由にやらせてもらいました。もちろん三浦さんの上司だった長田暁二さんの協力もあってのことでしたが。それでも、もっと自分らが主体性を持ってやれるような、レコード作りができたらという思いがありました。それで、そんな奇特な人がいるんだったら考えてみようと思いました。でも僕一人ではできない、そこで拓郎に話してみたんです。拓郎はソニーにいたのでOKなんて言わないだろうと思ったけど、ソニーとは以前ほどの関係ではない様子だったので、一応話したらまんざらでもない感じ。その時拓郎から「俺と小室さんだけじゃダメ、わかりやすすぎるし面白味もないし。レコード会社っていう体裁でも弱い」と。
ーー小室さんと拓郎さんがプライベートも含めて、仲がいいことは良く知られていましたし。そこからお二人に、どうお話をしたのでしょうか。
小室
拓郎は「やってもいいけども、条件としてはね陽水を連れてきて、陽水がやるなら俺はやってもいい。」それで陽水に誰が言うんだといったら、拓郎が「あなた友達でしょうよ、陽水と。あなた行ってきなさいよ」と言われたんですね。その時、陽水は多賀さんのところに行ってるし、僕とはパイプの切れた状態で、まず無理だろうなと思いました。それでも陽水に話を持っていくと、拍子抜けするぐらいに、やってもいいけどみたいな感触でした。陽水もちょっと、多賀さんやポリドールとの間で少し手詰まりになっていたんですかね。のちに陽水は記者会見で、これはアドベンチャーだって言ってましたね。
ーー当時陽水さんには、裏面でビクター移籍の話しがあったんですね、まさに同じタイミングで。
小室
それは僕は知りませんでしたが、ともあれ、あの人はある種危険なことも好きな人で、それで拓郎を入れて3人で会うことになったんです。夜な夜な会っちゃあ話をして。で、どうやら陽水もまんざらでもない。こうして3人になったんですが、それでもまだ何か足りないねと、ああだこうだ言って。のちにムッシュは「何で俺じゃなかったの!」なんて言ってましたが。誰ともなく、三人ハタとして「泉谷(しげる)!!」。もうこれで決まり!みたいなことで。泉谷に声かけると、「いいよ」ということで。それで始まったんです。
ーー伊藤明夫さんが、間に入られたのでしょうか。
小室
拓郎と同じ広島フォーク村出身でその時は泉谷のマネージャーだったからね。そういう成り行きで各々のマネージャーが加わって8人ですね。何だかんだ言ってるうちにすっぱ抜き記事が出て、それで出ちゃったなら始めるしかしょうがないねって始めました。アーティストが作ったレコード会社だからと、僕以外の全員はアーティストの誰かが社長になるべきだと言いました。僕は外部から専門家をと言ったのですが駄目でした。でも僕は、それぞれのマネージャーを含めて、経営に関してはみんなアマチュアだと思ってました。しかし、後藤由多加は実業家志向があったようなので、アマチュアというつもりはなかったでしょうね、そこまで思いいたっていませんでした。

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