ポップス、そしてフォークと「アメリカ」の文化が輝いた60年代〜70年代。
日本語の「詩」と出会うことで羽ばたいた「日本のフォーク」黎明時代。

インタビューを担当した牧村憲一さんが小室等さんに初めて出会ったのは1969年。そして1970年、当時の『小室等と六文銭』中津川第2回全日本フォークジャンボリーへ同行、続けて『小室等9月16日のコンサート』の企画制作を経て、1972年に六文銭の初代マネージャーとなります。日本のフォークが隆盛を極める前夜、「新しい歌作りが当時どう生まれてきたか」に焦点を合わせたインタビュー。

——小室さんの子供の時代のこと、以前お聞きしたお祖父様のことをお話しいただけますか。
小室
生まれは葛飾区の堀切菖蒲園の駅のそばで、すぐに荒川区尾久町に移りました。 母方の祖父は経師屋、旅回りの経師屋です。その行く先々、逗留先で、近所の人を集めて、浪曲やら民謡を唸って聴かせるという、二股かけているような人だったんですね。
人に何か歌って聴かせるっていうことは、うちのおふくろもその弟のおじきも好きでした。酒席でも望まれれば歌ったし、僕も子守歌代わりにいろんな歌を歌ってもらいました。
——そうした子供の頃の体験が、フォーク・ソングに繋がっているのでしょうか。
小室
フォークに飛びつく前に、アメリカン・ポップスがありました。中学校の頃です。最初はニール・セダカ、ポール・アンカ、コニー・フランシス、もちろんプレスリーもありまして結構夢中で聴いていました。中学高校6年間がミッションスクールで、高校2年の時に、同学年の小林雄二に誘われて男声合唱団に入りました。レパートリーの大半が黒人霊歌だったんですよ。黒人霊歌は簡単に三度でハモれるし、シンコペーションの楽しさもありました。小林雄二がYMCAの国際キャンプに行ってきて「お前すげーのがある」って帰ってきた、それがキングストン・トリオだったんです。レコード屋に行ったら、ドーナツ盤で2枚ほど出てたんです。トム・ドゥーリーは日本でもヒットしてました。でもそのトム・ドゥーリー以上に、カップリング曲がまあかっこよくてね。黒人霊歌を歌っていた僕たちがそこに飛びつくのは、自然な成り行きでした。もう一人合唱団のメンバーを誘ってトリオを組んで、キングストン・トリオのコピーを始めたっていうのが、高校2年のよきフォークソングとの出会いですね。そこからだったんです。
——そうしたレコードはどうやって手に入れたのですか?
小室
大体有楽町のハンターに行きましたね。新譜を手に入れるっていうような回路は、フォークに限ってはハンターにだって無かったんです。ところが、中古には結構フォークの掘り出し物があったんですよ。
FENで深夜に、知っている曲なんだけど「何じゃこれ」っていうものが流れてきたんです。それはキングストン・トリオで知っていた『レモンツリー』だったのだけど、アレンジが全然違うし、女性ヴォーカルがいる。翌日か翌々日ハンターに行きました。でたまたま、ブロンドの女性を挟んで両側にビートニック髭の男が二人いて、もう直感的に「これだ!」っと思ったんです。ハンターもそう簡単に試聴はさせてくれないんです、かければ傷みますから。でもまあしょっちゅう顔出してるもんだから特別にかけてくれて、そうしたら昨日FENで聴いた音が全部聴こえてくるじゃないですか。それは中古でもう封の開いてるものだったんですが、それ買ってきました。小林雄二にね、「お前ね、受験勉強してる場合じゃない」、「学校なんか行ってる場合じゃない」と言いました。小林は、隣の女子校とやっていた混声合唱団の女子に声かけて、PPMフォロワーズが結成されました。

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