- ——その後六文銭にシフトしていくわけですね。六文銭初期から関わってくる皆さん、まず小島武さんとの出会いをお聞きしたいのですが。
- 小室
- デルタモンドという広告代理店が、原宿セントラル・アパートの中にあったんです。小島武さんはデザイナーとして勤めていたんですが、その会社がファッションショーのプロデュースをすることになったらしいのです。小島さんは、日本にPPMそっくりの歌をやるバンドがあることを知り、僕らにコンタクトをとってきたんです。それが始まりでした。
- ——上條恒彦さんとは『出発の歌』以前から交流があったんですよね。
- 小室
- ジョー(上條恒彦)さんがある日、僕のところに訪ねてきたんですよ。曲が欲しいという要望でした。当時のジョーさんは、まだ無名の時代でした。銀巴里のそばにシャンソンの、今で言うところのライブハウス、エポックがありました。僕はその頃から、もうコピーじゃない歌作りをしたい、日本語の歌、歌探しをしていました。そこにはよく行ったんですよ。その店で上條さんの歌を初めて聴いて「何じゃあこりゃ」とびっくりしました。これに類する人ってのはハリー・ベラフォンテ。ジョーさんハリー・ベラフォンになりたかったんじゃないかと思う。ごーごーと地鳴りがするような声で、黒人霊歌を歌ってました。すごいな~というのがあって、そのジョーさんが声をかけて来たっていうことで 、喜んで曲を書きました。
- ——六文銭や小室さんにとって欠かせない劇作家の方や詩人の方との交流は、どうやって始まったのですか。
- 小室
- 僕は詩っていう世界のことについて、全く認識が無かったんです。世の中に詩人というものが存在する、例えば谷川俊太郎さんのような詩人ですね。はじめはやみくもに、新しい日本の歌を作ろうと言葉探しを始めたわけです。そんな時キーパーソンが二人いたんです。一人は松岡正剛、もう一人が小島武。小島さんは高校生対象の新聞、ハイスクールライフのアートディレクターもやっていて、その新聞の編集長だった松岡正剛にも出会うことになります。で、それと同時並行で草思社っていう出版社があって、編集者に谷川俊太郎さんたち詩のお仲間がいたんです。その草思社がヤマハ財団の機関誌のようなものを請け負っていて、その中にフォークのページを作るっていうんで、僕にコンタクトがありました。機関誌では新しい歌を毎回掲載していて、その中には茨木のり子さんの詩に三善晃さんが曲を書いていたりして。『一人でいるのは賑やかだ』というタイトルの曲でした。僕はびっくりしてね。それから茨木のり子さんに会わせてくれたんですよ、その編集者が。まずは茨木さんに実はこうこうこうで、フォークソングに飛びついて、新しい歌探しをしているとお話ししたら、茨木さんは自分の詩も提供してくれたんですけれども、「あなたはね、そういうものを求めているならば、プレヴェールと谷川俊太郎さんの詩を読みなさい」と言われた。初めて僕は、本屋の棚に詩集というものがあると認識し、そこでプレヴェールと俊太郎さんの詩集を見つけて買って来たわけです。その詩集の中に『あげます』という詩があって、それに一番最初に曲を付けたんですよ。
同時期、松岡正剛が、六文銭を面白がり六文銭挽歌集というページを作って、松岡正剛プロデュースのもと、毎号僕らが歌作りをすることになり、いろいろ詩人の皆さんたちに声をかけてくれたのです。それで作詞家ではなく、詩人に繋がったんです。さらに早稲田小劇場にも繋がっていくのですが、先んじて別役実さんから「髭の生えたスパイ」という詩をいただきました。それは書き下ろしでした。
- ーー新宿アートシアターギルド、映画が終わった後の夜の上演でしたね。
- 小室
- 「スパイ物語」という芝居。「髭のはえたスパイ」っていう詩は、多分シノプシスみたいなものでしたね、「スパイ物語」の脚本を書く前の。それと早稲田小劇場の委嘱で唐十郎さんが書いた「少女仮面」。ハイスクールライフの六文銭挽歌集に唐さんが書き下ろした「ひなまつりの歌」に曲をつけたんですけど、それを唐さんがすごく気に入ってくれて、「少女仮面」の劇中歌として使われた。それを機会に唐さんの主宰する状況劇場の劇中歌を僕がずっと書いていくことに繋がるんですね。だからいわゆる日本のフォークの人たちとは違う、僕たちはちょっと特異な路線を辿っていくんです。
'71合歓ポピュラー・フェスティバル
"スパイ物語" 常田富士男さんと
六文銭(1971)
小室等ディスコグラフィー ≫