小坂忠 EARLY YEARS 1966-1976 ②

生涯のプロデューサー、高叡華との出会い
1969年、音楽や演劇、グラフィック・デザインやファッションなどが渾然一体となったシーンの中で、小坂忠と高叡華は出会った。
幼稚舎から大学まで慶應義塾で過ごした高叡華は、同級生だったザ・フィンガースの高橋信之(高橋幸宏の実兄)や成毛滋と親しく、大学では企画サークル「慶應風林火山」に信之とともに所属し、数々のコンサートやイベントを企画・運営していた。イベントでは同じく風林火山のメンバーだった景山民夫とともに構成台本を手掛けることがあり、エイプリル・フールも出演した日消ホールのコンサートでは、OHP(オーバー・ヘッド・プロジェクター)を使ったサイケデリックな照明を担当していた。風林火山の後輩には松本隆がおり、エイプリル・フール以前に松本が結成し、細野晴臣もメンバーに加わったバーンズとも交流があった。
小坂と高の間に共通の友人は多かったが、二人が直接話す機会は少なかった。そんな状態が続いた後、高叡華の卒業パーティーに、小坂忠が足を運んだことをきっかけに、二人は付き合うようになる。
小坂忠が出演したロック・ミュージカル『ヘアー』で、高叡華はアシスタント・プロデューサーを務めていた。公演の中止で「途方に暮れた」のは二人とも同じだったが、心機一転、麻布材木町(現在は六本木ヒルズがあるエリア)に一軒家を借りて、『ヘアー』の出演者や写真家、ミュージシャン(上月ジュン)と共同生活を始めた。現在の若者達も憧れる「シェアハウス」で再スタート―—と書くと華やかな印象があるが、当時の小坂忠はコーラの瓶を集めて1本10円で引き取ってもらい、生活費の足しにする日々を送っていた。一方の高叡華はサンローランの日本ブティック1号店、青山サンローラン・リブゴーシュのスタッフとして働き、小坂が細々とでも音楽活動を続けられるような環境を作った。さらには、71年に川添象郎(象多郎)、村井邦彦、ミッキー・カーチス、内田裕也が設立したマッシュルーム・レーベルから、小坂忠が第1弾アーティストとしてソロ・デビューすることになると同時に、高はディレクターとして参加し、以降は小坂の楽曲で作詞を担当することもあった。
ソロ・デビュー・アルバム『ありがとう』がリリースされた翌月、71年11月6日に渋谷の日本基督教団・聖ヶ丘教会で二人は結婚式を挙げた。新居はアメリカ村と呼ばれた狭山の米軍ハウス。アメリカ村には細野晴臣、麻田浩、和田博巳、洪栄龍、吉田美奈子などアーティスト達が続々と引っ越してきて、この地を拠点に数々の名作が生まれることになる。さらに高の小坂に対するサポートは、二人が76年にトラミュージックを設立してからは、生涯にわたって継続されることになる。小坂忠という存在は、正確に記せば小坂忠個人のことを示すのではなく、「アーティスト・小坂忠+プロデューサー・高叡華」のユニット名だといっていいだろう。
『ありがとう』から『ほうろう』へ
マッシュルーム・レーベルを拠点に、小坂忠はハイペースでアルバムを制作していった。レーベルのプロデューサーであるミッキー・カーチスのもと、細野晴臣との共同作業で完成させた『ありがとう』。新たに結成されたフォージョーハーフ(駒沢裕城、林立夫、後藤次利、松任谷正隆)を起用したライヴ盤『もっともっと』。ストリングス&ホーン・アレンジ、コーラスなどで瀬尾一三のサポートを受けた『はずかしそうに』。青木和義率いる葡萄畑とのライヴ活動を経て、再び細野晴臣を組み、当時のティン・パン・アレー人脈が総動員された『ほうろう』へとリリースは続く。
これらは1971年後半から75年初頭の、わずか約4年間の出来事である。今改めて振り返ると、「日本のジェイムス・テイラー」という異名とともに高い評価を得たデビュー作『ありがとう』から、ティン・パン・アレーの演奏と一体となったグルーヴ感溢れるヴォーカルで名盤との呼び声も高い『ほうろう』まで、マッシュルーム時代の活動は順風満帆だったように思える。 しかし当時、小坂忠が感じていた「自己評価」はそうではなかった。『ありがとう』のレコーディングでは、まだ「自分の歌い方」が分からなかった。『ほうろう』ですら、自分のヴォーカルのスタイルがおぼろげながら見えてきた段階だったという。確かに素晴らしいプレイヤー達をバックに揃えながら、ほぼ1年ごとにメンバーを入れ替えているところにも、その「試行錯誤」感は表われている。名盤『ほうろう』を完成させた後もシンガー・小坂忠は迷い続けるのだった。
パイオニア・スピリッツの結実『モーニング』
小坂忠の活動歴には、日本のロック史にパイオニアとして足跡を残した例がいくつかある。日本初のロック・ミュージカル『ヘアー』への出演がそうだし、インディペンデントな原盤制作会社を「レーベル」と位置づけ、メジャーな販売網を使って音源をリリースしたマッシュルーム・レーベルへの参加も同様。『ほうろう』のリリース後、75年4月から7月にかけて行われた「ファースト&ラスト・コンサート」もロック・バンドによる全国ツアーとしては画期的なものだった。
出演者だけではなく、音響・照明の機材やスタッフもパッケージにして全国をコンサートで回る、欧米型のコンサート・ツアーを日本で最初に行ったのは誰なのか?については諸説あるが、この「ファースト&ラスト・コンサート」の新しかった点は、小坂忠&ティン・パン・アレーだけではなく、『ほうろう』と同時期に『BAND WAGON』をリリースした鈴木茂とのレコード会社の枠を越えた(当時の鈴木茂のソロ作はキングレコードより発売)ダブルネーム・ツアー(プロモーション上の打ち出しは、小坂忠、細野晴臣、鈴木茂のトリプル・ネーム)だったこと。それまでの歌謡曲的な興行形態とは根本的に違う、全国のコンサート・プロモーターが連携して組まれたツアーだったこと。そして、『ほうろう』のレコーディング・メンバーである細野晴臣(B)、鈴木茂(G)、林立夫(Dr)、浜口茂外也(Per、Flute)、吉田美奈子(Vo)に、佐藤博(Key)、ジョン山崎(Key)が加わった豪華メンバーによる演奏、ダンスも交えたソウル・レヴュー・ショー風のステージ・マナーも残された映像を見る限り充分に画期的だった。
では、小坂忠自身にとって、このツアーはどのような経験だったのだろうか。著書『まだ 夢の続き』(河出書房新社)には「最悪だった。ステージに立つことが嫌でたまらなかった。」と記されている。全国約35カ所の公演は消耗が激しく、メンバーとの人間関係も崩れていく。歌に自信が持てない、音楽を楽しめない。残された輝かしい伝説とはあまりにかけ離れたヘヴィな日々だったようである。ツアー後にマッシュルームを離れ、ショーボートへ移籍して制作された76年の『Chew Kosaka Sings』でも、ハワイでのレコーディング中、同じような精神状態が続き、納得がいくような作品にならなかった。名盤『ほうろう』から一転、再び迷いの時期に入ってしまうのである。パイオニアがゆえの試行錯誤が続くのもまた、若き小坂忠の軌跡の特徴なのだ。
しかし「アーリーイヤーズ」の最終章で小坂忠は見事に復活する。公私にわたるパートナーである高叡華を社長にトラミュージックを設立し、アーティストが自ら作るプライヴェート・スタジオとしてはこれも先進的な試みのトラスタジオも構えた。同スタジオにティン・パン・アレー、坂本龍一、ブレッド&バターなどを招いてレコーディングされた77年の『モーニング』は、シティ・ポップスの先駆けともいえる名盤になった。小坂にとって『モーニング』は、『ほうろう』以上に自分のメッセージを伝えることができ、シンガーとプレイヤーの距離を縮められたアルバムだったのだろう。
このアルバムをリリースした後、小坂忠はクリスチャンとなり、音楽活動はゴスペル・ミュージックに集中していくことになるが、当時は閉鎖的な面もあったクリスチャンの世界で、ロック/ポップスでの経験を活かした新しいゴスペル・ミュージックを創造し、定着させていくのは並大抵のことではなかった。
小坂忠のパイオニア・スピリットは、フィールドが変わっても衰えることを知らなかったはずである。

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