アートやファッション、演劇が交差する場所に身を置きながら、
日本のロック/R&Bを生み出す試行錯誤を続けた小坂忠の1966-1976。

ザ・フローラルでのデビューからエイプリル・フールの結成、日本初のロック・ミュージカル『ヘアー』への出演、名盤『ほうろう』『モーニング』のリリース。小坂忠の50年を超えるキャリアのうち「最初の10年」は、日本のロックが欧米の影響下からオリジナルなものへと進化していく軌跡と重なる。デビュー時を語るインタビューと詳細なバイオグラフィー、2部構成で明らかにするアーリーイヤーズ。

音楽との出会い すべてはFENから始まった

小坂
音楽との出会いはラジオです。バンドを始めた頃でも、まだ家にレコード・プレーヤーがなかったくらいですから、音楽を聴くにはラジオしか手段がなかったんです。海外の音楽を聴き、情報を得るのはもっぱらFEN(極東放送網=戦後、日本に駐留した米軍向けのラジオ放送/現AFN=米軍放送網)。ジャンルを問わず、FENから流れてくる曲はなんでも聴いていました。当時は音楽のジャンル以前に、「ラジオ」自体が独立したジャンルみたいなもので、大きな存在でした。あの頃の音楽ファンを皆、同じじゃないかな。ラジオの存在の大きさが分かるのは、FENが流れていた地域、東京以外でも広島や福岡、青森などからは多くのミュージシャンが生まれているんです。やはりそれだけFENを通じて洋楽に出会い、影響を受けた若者がたくさんいたということでしょうね。僕にとってはこの当時FENで聴いた曲はまさに原点であり、今回リリースする『CHU KOSAKA COVERS』でも、そういった曲を選曲してカヴァーしました。
子供の頃から音楽は好きでしたが、自分で歌がうまいとか、歌手になりたいとは考えたことはなかったですね。まあ、多少は大人に褒めてもらったことはありましたけど(笑)。昔は魚屋さんが御用聞きに来たりしたじゃないですか。家にも威勢のいいお姉さんが来ていてね、僕がたまたま歌っていたら「うまいね~、兄ちゃん!」だって(笑)。小学生の時からレイ・チャールズがFENから流れてくると一緒に歌っていました。一生懸命カタカナで英語の歌詞を書き取ったりしていましたね。「アイ・キャン? うーん、なんて歌っているんだろう?」なんて(笑)。

ザ・フローラルの結成 2トラックのレコーディング

小坂
バンドを本格に始めたのは大学に入学してからです。高校時代から、ちょっとPPM(ピーター、ポール&マリー)なんかは歌ったりしていて、メンバーの中心は高校からの友達。練習はそのうちの一人の祐天寺の自宅でやっていたのを憶えています。
僕は最初、ヴォーカルじゃなかったんです。サイド・ギターとサイド・ヴォーカル担当みたいな感じで。ヴォーカルだったのは先輩で、彼の関係で柳田ヒロが加わったんですよ、確か。そのバンドでミュージカラーレコード(日本ミュージカラー)のオーディションを受けたんですが、結局デビューの段階で残ったのは僕とヒロだけだったんです。ヒロの知り合いだったベースの杉山(喜一)、ドラムの義村(康市)が新たに加わって、ギターの菊池(英二)さんはミュージカラーの紹介で入った。それがザ・フローラルですね。
いざ、デビューするとなったら、家族から反対されましたね。「そんなことで飯が食えるのか?」と。父親は普通のサラリーマンですしね。趣味で謡いをやったりはしていて、僕も発声は少し影響を受けていると思いますが、ロック・バンドに入って、デビューして……と息子から説明されても理解できなかったと思います。僕自身がバンドで食べていくなんて、全く想像もついていませんでしたから。
ザ・フローラルの頃によく聴いていたのは、ブリティッシュ・ロックです。キンクスやスペンサー・デイヴィス・グループ。アメリカだけではなく、ロンドン発の音楽も本当に面白かった時代です。ただし、僕は自分の好みをあまりバンドに持ち込もうとはしませんでした。歌うのが好きだというだけで、こんな曲を歌いたい、こんな風に歌いたいという気持ちがなかったんです。もともとコピーばかりやっていて、ドアーズだったらジム・モリソンみたいな声の出し方をすることしか考えていなかったんです。だからザ・フローラルでシングルのレコーディングでは、本当に困りましたね。作曲家の方が書いた曲とはいえ、オリジナルですから、歌い方のお手本がない。指導してくれる人もいない。当時のレコーディングは2トラックしかなくて、メンバーの演奏をほとんど一発録りで録音した2トラックを別の2トラックに移し替える時に歌入れをするんですが、とにかく苦労しました。全く未知の作業でしたから。

不思議な会社と過剰なファッション

小坂
2万人くらい会員がいたザ・モンキーズのファンクラブを運営していて、余裕があったのだと思いますが、所属していたミュージカラーは良い待遇をしてくれましたね。楽器は海外の一流メーカーのものを揃えてくれて、アンプやPA、サイケデリックな照明も特注。会社から出る給料も当時としては破格の金額の5万円。それと何か新しいことをやっていこうという意欲があって、不思議というか、面白い会社でした。
土屋(幸雄)くんという後にタージ・マハル旅行団のメンバーになる人がいて、彼が面白い実験をいろいろやっていたんです。例えば東京からザ・モンキーズのメンバーのニュースを発信すると、全国各地に何日かかって届くのかを調べていたり。インターネットで一瞬に情報が広がる時代じゃないですから、地域で時間差があったんですよね。それと僕達がイベントに出演すると、応援してくれるファンを動員するんじゃなくて、アンチ・ファンを仕込むんです。それで演奏中に「ヘタクソ!」とヤジを飛ばすと、周りで観ていた人達がみんな僕らのファンになっちゃうというんですよ。発想が面白いでしょう(笑)。
(衣装やロゴ・デザインを手掛けていた)宇野亞喜良さんとは何度かお会いしましたが、人柄はソフトなのに、とにかく実験的なことに挑戦しようとするエネルギーがすごい方だと思いました。ただし、当時の僕が宇野さんのデザインを理解していたかというと……正直、最先端すぎて分からなかった(笑)。ドラキュラとか星の王子様、ピーターパンや孫悟空をイメージした衣装も、やっぱり恥ずかしかったですよ。
もともと僕はファッションには興味がなかったんです。まあ、多少参考にしていたのはビート族ですね。PPMのファッションがビートニクといわれていたんですが、髪も長くはないし、そんなに変わったファッションではないですからね。髭に特徴があるくらいで。ザ・フローラルに入って、給料が良かったこともあって、ちょっと服でも買ってみようかなと思ったんじゃないかな。それで当時渋谷の西武の中2階にできた山本寛斎さんの新しいお店に行くようになったんです。髪はおかっぱ? まあ、おかっぱといえばおかっぱですが、あれは長髪にする途中というか(笑)、当時は男が髪を伸ばすのは大変だったんですよ。エイプリル・フールになった時にはだいぶ髪も伸びて、完全にファッションもヒッピーになりましたね。ものすごく裾が広がったパンタロンとかはいていましたから、ちょっと異様な風体で。六本木スピードに出演した後に柳田ヒロと街を歩いていたら、向こうから来たコワイお兄さんが道をあけてくれたというね(笑)。

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