小坂忠 EARLY YEARS 1966-1976 ①

ザ・フローラルとヴォーカリストとしての自覚
今年、小坂忠が迎えた「デビュー50周年」の起点は、プロとしての第一歩を踏み出したバンド、ザ・フローラル結成の年、1966年に置かれている。当時、大学生だった小坂は、柳田ヒロ(G、Key)らバンド仲間とともにオーディションを受けて合格、その後、義村康市(Dr)、杉山喜一(B)、菊池英二(G)が加わり、メンバーが揃った。68年には2枚のシングル、「涙は花びら/水平線のバラ」と「さまよう船/愛のメモリー」をリリース。時は66年のザ・ビートルズ来日から始まるグループサウンズ・ブームがピークに達したタイミングであり、曲タイトル、ジャケット写真からも窺えるように、ザ・フローラルもまたGSにカテゴライズされるバンドだった。
GSのバンドの多くがそうだったように、ザ・フローラルもまた、ステージで自身のシングル曲を演奏することは少なかった。演奏曲の中心は洋楽のカヴァー。渋谷・道玄坂のヤマハで輸入盤をジャケ買いして、メンバーが揃って聴きながら選曲していたという。アイディアを出し合う際、小坂は積極的に意見を述べておらず、特にどうしても歌いたい曲はなかったそうだ。むしろ意識は「どんな曲でも歌えるようにしておかなきゃ」という不安のほうに向いていた。
この時代の小坂忠は、まだヴォーカリストとしての自覚が芽生えておらず、自らの音楽性を模索していた段階だったのかもしれない。だからといってザ・フローラル時代の経験が無駄だったかといえば、そうではない。バンドの周辺には60年代後半の文化的な状況を象徴する要素が多く含まれていたことも事実であり、小坂の後々のキャリアに大きな影響を与えている。
ミュージカラーレコードの先進性
ザ・フローラル結成に向けたオーディションを主催し、専属契約を結んだのはミュージカラーレコード(日本ミュージカラー)という会社である。同社の主要事業はピクチャー・レコードの生産だったが、当時、圧倒的なアイドル的人気を誇っていたアメリカのバンド、ザ・モンキーズのファンクラブ日本支部も運営していた。ザ・フローラルはもともと「モンキーズのファンクラブから生まれたバンド」として構想されており、68年10月に日本武道館などで行われたザ・モンキーズの来日公演では共演も果たしている。結果的に、小坂忠はザ・フローラル、そしてその発展型であるエイプリル・フールの一員であったことを通して、「ロックはあくまで欧米が本場」の時代から日本オリジナルのロック・バンドの誕生へと向かう過渡期を経験してきたといえるだろう。
また、ザ・フローラルのヴィジュアル・イメージ全般をプロデュースしていたのが、横尾忠則と並ぶ日本を代表するイラストレーター/グラフィック・デザイナー、宇野亞喜良だったことも特筆すべき点である。宇野はメンバーの衣装デザインを手掛けただけではなく、デビュー・シングルのA面曲「涙は花びら」の作詞もしている(作曲は村井邦彦)。また、ロゴマークなどもデザインし、そのロゴが華々しくペイントされたワーゲンのワンボックスカーが楽器車として用意された。
サイケデリック・ムーブメントを体現するカルチャー・ヒーローだった宇野亞喜良とザ・フローラルの結びつきは、最先端だった。まるでニューヨークにおけるアンディ・ウォーホルヴェルヴェット・アンダーグラウンド(67年デビュー)の関係とシンクロしていたかのように。
1969年のエイプリル・フール
ミュージカラーレコードに、ある種の先進性があったことは確かである。そして、その先進性はメンバー間の分裂状態を招くことになる。ミュージカラーは、結成当時からアイドル路線に反発を感じていた小坂忠、柳田ヒロ、菊池英二の3人を残留させた上で、新たなメンバーを加え、本格的なロック・バンドを結成することを選択。時は1968年末。グループサウンズのブームは陰りが見え始め、ニューロック、アートロックの誕生へと向かっていく転換期だった。
小坂はメンバー探しの渦中で、柳田ヒロの兄であり、立教大学でPEEPというアマチュア・コンサートを主催していた柳田優に誘われ、とあるパーティーに足を運んだ。そこで細野晴臣と松本隆に出会い、セッションになり、小坂は松本の自作詞「暗い日曜日」を細野のギターをバックに歌っている。また、西麻布のバー「マリーズ・ブレイス」で小坂が5万円入り給料袋をかざしながら、細野をバンドに誘ったのも有名なエピソードだ。
こうして前出の3人に細野晴臣(B)、松本隆(Dr/当時、松本零)を加えてエイプリル・フールが結成されることになり、69年4月にはアルバムのレコーディングに入った。同作『THE APRIL FOOL』の荒木経惟によるジャケット写真やアザ−カット(ザ・フローラルから引き続きマネージャーを務めることになった幾代昌子が撮影をコーディネイト)からも伝わってくるように、エイプリル・フール時代の小坂忠は、当時の音楽性を体現するようなヴィジュアルをしている。ヒッピー・ファッションをまとった痩身に長髪、鋭い視線と髭をたくわえた顔立ち―—その歌声のみならず、まさにダークで緊張感溢れる「ロック・バンドのヴォーカリスト」の姿である。しかし、バンドに一員というポジションに小坂忠が長くとどまることはなかった。
日本初のロック・ミュージカル『ヘアー』
エイプリル・フールの活動期間は、1年にも満たなかった。1969年3月に結成、10月のアルバム・リリースとほぼ同時に解散。レコーディング以外は、ディスコなどでの演奏が中心だった。新宿パニック、六本木スピードのハコバンとして45分のステージを1日4~5回こなし、夏の間だけ営業されるディスコに出演するために1ヶ月間、八丈島に滞在もした。解散の直接的な理由は音楽的な方向性の違いだが、こうした活動に疲れてしまったことも一因だったと後に小坂忠は語っている。とはいえ短くも鮮烈なエイプリル・フールの活動が、日本のロック史に確かな爪痕を残したことも事実である。それは残された音源の先進性もさることながら、ライヴの素晴らしさを聞きつけて、当時まだ高校生だった高橋幸宏や小原礼、鈴木茂などが六本木スピードの客席にいたというエピソードからも伝わってくる。
次のステップは見えていた。ディスコ出演の後、小坂、細野晴臣、松本隆は麻布にあった松本の自宅に集まり、バッファロー・スプリングフィールドなど聴きながらオリジナル作品を中心とした構想を話し合っていたという。記すまでもなく、この流れがはっぴいえんどの結成につながるわけだが、小坂忠だけは別の道を選択する。 反戦メッセージやヒッピー文化をモチーフとし、ブロードウェイに初めてロックを持ち込んだミュージカル『ヘアー』(オフ・ブロードウェイでの初演は67年、ブロードウェイでは68年)をプロデューサー・川添象郎(象多郎)が日本に持ち込み、日本人キャスト中心の公演を計画。小坂忠は開催されたオーディション(69年9月)を受け、「トライブ」(劇中、ヒッピー仲間のことをそう称していた)の一人として出演することになったのだ。オーディションの際、小坂は付き添った細野のギターをバックに「マザーレス・チャイルド」を歌い、バック転を披露した。
『ヘアー』には、寺田稔、深水龍作らの俳優だけではなく、加橋かつみ、クロード芹沢、大野真澄、シー・ユー・チェン、宮下文夫(現・富実夫)などのミュージシャンもキャスティングされ、安藤和津(当時の芸名は荻かづこ)も出演者の一員だった。
69年12月、渋谷東横劇場で東京公演が開催。しかし、大麻不法所持で逮捕者が出る事件が起き、続いて予定されていた大阪公演は中止になる。当時は「途方に暮れた」という小坂忠の選択は間違っていたかかのようにも思えるが、この少し前に小坂の人生において最も重要なパートナーと出会っていることを踏まえると、この「新しいエネルギー」に溢れていた時期は間違いなく重要だったといえるだろう。

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