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ビジネスとしての成功より新しい音楽の世界
- 小坂
- (ザ・フローラルが解散へ向かい始めた時)アイドル的な人気があったメンバーと違って、僕は会社から見放されていると思い込んでいたんです。ああ、このまま僕は路頭に迷うんだなと(笑)。ところが驚くべきことに、ミュージカラーと(ディストリビューション担当の)日本コロムビアが考えていたのは、僕と柳田ヒロ、菊池英二を中心としたロック・バンドの結成で、この3人に新たなメンバーを加えることになった。今振り返ると、会社は新しい音楽の世界をつくろうとしていたんじゃないかな。芸能界とは別の可能性をチョイスしたのだと思います。
僕自身は明確に次の音楽性が描けていたわけではなく、単にもっと音楽をやりたいという気持ちだったと思いますし。有名になりたいとか、芸能界で生きていきたいという気持ちは全くなかったですし、こういう音楽をやれば売れるんじゃないかという、ビジネス的な感覚も持ち合わせていなかった。少しでも周りにビジネスっぽい感じが出てくると僕は居心地が悪くなっちゃう。後にフォージョーハーフを結成した時もそうでした。あの頃は風都市という事務所にいて、フォージョーハーフとはっぴいえんどが所属していたじゃないですか。そこで「こういう音楽をやって、ちゃんと音楽をビジネスにしていこう」という雰囲気になって、ついて行けない気持ちになりましたね。
新しいものをつくるために いつも別の道を選んだ
- 小坂
- 僕にはやっぱりビジネスを含めてプロデュースしてくれる存在が必要なんでしょうね。そういった意味では、彼女(高叡華)に心から感謝しているんです。一人でやっていたら、おそらくアーティスト活動を続けてこられなかったと思う。社交的に人間関係を築いていって、音楽を仕事として成り立たせていくなんてことは、僕だけでは無理でした。音楽がリスナーに受け入れられていくためには、やっぱりアーティストの魅力が一番大事だし、ものをつくり出す根本はそこにあると信じてはいますが、それだけでは続けられないのも事実です。とはいえ、アーティストがビジネスのことを考え過ぎちゃうと、創作の輝きが失われていくことも確かなので、その辺りが難しい。結局のところ有能な彼女がいてくれて、僕が苦手なビジネス面を彼女が担ってくれたからこそ、やはり今の僕があるんですよ。
とにかく僕がデビューした60年代後半は面白い時代でした。何か新しいことが生まれそうだという可能性に惹かれて行動していただけですが、結果的に“もし、あの時こうしていれば……”という、“たら・れば”が結構たくさんある人生になってしまった(笑)。もし、あの時、ザ・フローラルというバンドでデビューしていなかったら、どうなっていただろう。エイプリル・フールが解散した後、もし、『ヘアー』のオーディションを受けていなければ、はっぴいえんどのメンバーになっていたかもしれないですし。結局、新しいことを作るためには、それまで持っていた何かを壊さなくちゃいけないんですよ。もちろん、壊すこと自体が目的じゃなくて、新しいものをつくるために僕はいつも別の道を選ぶことになったんでしょうね。
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