シャンソン、カンツォーネ、長唄、清元、常磐津
——タイミング的には、アメリカに行った時はアマチュアで、戻ってきてからすぐにアリスを結成して、プロになるという流れですよね。
谷村
メキシコで本当にお金なくて、メキシコで友達になった学生達がカンパしてくれたんです。「お前らは絶対夢をなくしちゃダメだ」といって、僕らの歌に対してお金を入れてくれたわけです。それを胸に抱いて細川とホテルまで、メキシコの夜の街をトボトボ泣きながら歩いていた時、僕はプロになりたいと思ったんです。細川もそのプロを育てる事務所をつくろうと決心した。帰りの飛行機のなかで、2人でそれを確認し合って、羽田空港に着陸してから動き出しました。
—— 一緒にアメリカに行っていた矢沢(透)さんの存在を含めて、谷村さんの中には音楽的な構想もあったんですか。アリスはフォーク・グループなのにドラマー、パーカッショニストがいるという、いわゆる当時の日本の四畳半フォーク的な編成とは異質のものですよね。
谷村
ニューヨークのシェイ・スタジアムでウッドストックのメンバーが半分くらい出ていたロック・フェスを観たんです。そのときにジャニス・ジョプリンを生で初めて観たんですけれど、その時にリッチー・ヘブンスが出ていたんです。アコースティックなサウンドをパーカッションでやっていて、そのグルーヴ感のすごさに鳥肌が立ちました。当時アコースティックでやっていたグループの中で、ビートのあるグループなんていなかったですから新鮮に感じて、これを日本語でできないだろうかと考えたんですね。だから(ドラマー、パーカッショニストの)矢沢のリズム感は絶対必要だったし、堀内(孝雄)の歌唱力にも惹かれました。2人の人柄も含めて、ぜひ一緒にやりたいと思ったんです。
——北米ツアーは全くの無計画だったとのことですが、アリス結成の着想を得たわけですから無駄ではなかったということになります。
谷村
そうですね。いや、無駄なことって、実は何もなくて。挫折の1つ1つに、ちゃんとプラスになることがあるというか。だからその後も、向かい風になったときに、チャンスだって自然に思うんですよ。「あ、アゲインストが来てる。これはチャンスだな」って。決してネガティブに物事を考えないし、人のせいにはしない。いつもベクトルは自分の内側に向いているという考えが、より強くなりましたね。
——アゲインストといえば、谷村さんと細川さんのチームにとって、その後もジェームス・ブラウンの招聘(73年)など、破天荒なことは続きます(笑)。
谷村
もうね、1本の映画にしたら、5時間くらいの長編になるくらいの事件だらけですよ。アリスがデビューした72年頃は年間300ステージくらいやっていたんですが、それは細川がとにかくアリスの音楽を聴いてください、交通費はこちらで負担します、いいと思ったら次は交通費を出してください、もっといいと思ったら今度はギャランティを出してくださいと売り込んだからなんです。だから最初はお金が出る一方で、その借金の返済をするために、勝負をかけたのがJB。僕らは全く知らなかったですけれどね。でも結局、大コケですから(笑)。
——今日はアリスのことをお伺いするのは主眼ではないので、1点だけお聞きすると、「帰らざる日々」などのヒット曲もそうですが、アメリカのフォークとも違うし、もちろんブリティシュ・ロックでもないし、もっと幅広いヨーロッパの香りがします。改めて振り返ると特殊な楽曲が多くて、それは谷村さんのカラーなんですよね。
谷村
アリス時代からフォーク・ソングの枠にとどまりたくないという思いがずっとありました。当時から僕は色々な音楽を聴いていて、その中にはシャルル・アズナヴール、シャルル・トレネ、ミッシェル・サルドゥなどもありました。日本ではあまりメジャーにならなかったけど、歌として僕はすごく魅かれていたんです。ロックのほうに傾倒していく人は、大体アメリカだったり、ブリティッシュの影響を受けるものですが、歌に特化していく人って、シャンソンとかカンツォーネも聴いているんですよね。当時、渡辺プロダクションがつくっていたテレビ番組、「シャボン玉ホリデー」でもアメリカンのスタンダード曲を紹介していたり、カンツォーネもうたわれていて、自然に聴いて育ったんです。
——音楽活動と併行して、デビュー前から「ヤンタン」(MBSヤングタウン)に出ていたり、東京でも「セイ!ヤング」が大人気を博したり、ラジオでのおしゃべりを続けていたのも谷村さんの特徴です。
谷村
関西の芸人さん達を見ていると、笑いをとることに命を賭けてるみたいな部分があって、僕らも振り返ると小学生の頃に、休み時間に女の子を笑わすことに、結構命がけだったんですよ(笑)。「あの子、おもしろいな」といわれることが、「カッコいいな」といわれることとイコールだった。そういう風に関西の男の子は育つので、うたうときはすましていても、しゃべったときに「あ、おもしろいやんか」と思われないとダメなんです。関西のしゃべり手というと、大きな声でまくしたてると思われがちですが、僕は全く逆で、大きくない声でゆったりとしゃべる。そういう関西弁もあることを知ってほしいという気持ちもありました。
——それは音楽と同じで神戸の雰囲気が反映されているということなんですか。
谷村
いや、神戸は関係ないでしょうね。僕が育った環境の影響だと思います。
——ご実家は(純)邦楽をやっていらしたんですよね。
谷村
自分が詞を書き始めた時に、子どもの頃から身についていた邦楽の世界のキーワードみたいなものが、いっぱい出てくることに気づいたんです。洋楽に影響を受けているだけだったら絶対出てこない単語が、ボコボコと出てきたりするんです。例えば「鳶色」とか、「群青」もそうなんですけど、そういう着物をベースにした色彩感覚とか、子どもの頃に意味もわからず聴いていた長唄とか、清元とか常磐津の一節が言葉になって出てくる。これは自分の育った環境からもらった財産なので、30歳超えたあたりから、素直に使っていこうと思いましたね。
――ギターの基礎をPP&Mから学び、神戸ではブルーグラスやカントリー、アメリカではリッチー・ヘブンスから影響を受け、さらにはシャンソンやカンツォーネもベースにある。それだけではなく、邦楽の素養も谷村さんの音楽にとって重要なんですね。じっくりお話しを伺えて、よく理解できました。今日はありがとうございました。

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