大阪で生まれ、京都の故・加藤和彦さんと交流を持ち、神戸のアマチュア・サークルで音楽活動を始めた谷村新司さんにとって、関西におけるフォークの創世記は、「関西フォーク」という言葉で一括りにできるものではなかった。そこには、それぞれの街の風土に根ざした独自の音楽性があった。さらには故・細川健さん(アリスが所属したヤングジャパングループ創立者)との出会いをきっかけにして、谷村さんはデビュー前から一気に世界へと向かうことになる。関西発、カナダ、アメリカ、メキシコ。破天荒であり、粋なエピソードもあるフォーク創世記の物語。

自分の言葉でオリジナルをうたうために
——谷村さんが最初に音楽を意識するようになった瞬間、好きになったきっかけ……そんなお話から伺えればと思っているのですが。
谷村
テレビで流れていた歌謡曲とは違う、フォーク・ソングが日本でも紹介され始めて、だんだん身近に感じるようになっていった体験が団塊の世代には共通してありますよね。ギターをたどたどしく弾きながら、フォーク・ソングを自分達の言葉、自分達の歌で表現していくことができたらステキだよねっていう意識が生まれてきた頃といいますか。それが1965年くらいの出来事で、僕にとっては高校生から大学生にかけて、自分なりの考えでバンドをつくり、オリジナルというものをつくり始めたあたりです。
 火付け役になったのはラジオでした。そういった音楽は深夜のラジオでしかかかりませんでしたから。当時はどのラジオ局もそうですけれど、深夜はいわゆる捨て時間で、誰も番組なんか聴いていないと思われていました。それが若者を中心に意外と聴く人がいるっていうことがわかってきて、大阪であれば毎日放送、朝日放送、ラジオ大阪の3社が深夜放送をスタートさせて、アナウンサーではない人達がパーソナリティとしてしゃべり始めたんです。その中には音楽をやっている人達がたくさんいて、フォーク・ソングを中心にオリジナルの匂いのする曲をどんどんかけていった。だからやがてテレビの音楽番組を見るよりも、ラジオの深夜放送で聴いているほうが最先端な感じがして、大人は知らないけど、俺達は知っているという、なんか共有感みたいなものが出てきて、それがすごいパワーを持つようになるんです。
 ラジオと並行して、関西ではアマチュアの音楽サークルができていきました。大阪は大阪、京都は京都、神戸は神戸でそれぞれの特色を活かして、活動していたんです。大阪はわりとプロテスト系の曲が多かったのですが、僕はラヴ・ソングがうたいたかった。それで僕は神戸のサークル、ポート・ジュビリーに属するようになりました。そんな中で京都のザ・フォーク・クルセダーズが全国的に一気にブレイクしていったところから、関西が注目を浴びるようになってきました。僕らは後輩ですが、一緒に行動することもありましたので、フォークが日本でブレイクした創世記を体験できたことになります。
——大阪と京都と神戸、それぞれが違うカラーを持っていたのは、なぜだったのでしょうか。
谷村
街が持っている雰囲気によって、やっぱり音楽の特色も変わってくると思うんですよね。例えば大阪は、権力に対する反発心みたいなものがすごく強い街なので、フォークの中でもプロテスト・ソングを受け入れる土壌があったということなのでしょう。神戸はちょっとお洒落な街でしたから、女子大学生も集まる社交場のように、コンサートの会場を使っていたんですよ。だからソフトで洒落たサウンドになってくる。京都は京都でまた独特な空気感があって、古都でもあるんですけれど、革新の街でもあるんです。だから大阪よりも、実際に政治的な行動を起こす人が多かった(笑)。御託を並べるよりも実践というか、京都は常に最先端を行っている感じがしていましたね。
——まさに京都が最先端を行っていた感じはザ・フォーク・クルセダーズに象徴されていたと思いますが、当時の加藤和彦さんにどういう印象を持たれていましたか。
谷村
加藤さんって……特異な存在であり、特別な存在でしたね。僕らは2年くらい後輩でしたが、後輩に対しても決して威圧感のある人ではないんです。優しい人で、柔らかい印象なんだけれども、独特の空気感がある。ファッションに対する感覚、音楽への感覚、すべて含めて。要するに海外の最先端のものをいち早く吸収していた人で、それを自分なりに取り入れて、自分の形にいつもしようとしていた人。だから加藤さんを見て、僕らは海外を感じていたんだと思います。「あ、アメリカでは今こういうジーンズが流行っているんだ」とか、加藤さんを見て新しい情報を知ったんです。でもね、「加藤さんがはいているあの靴、どこで売っているんだろう?」と思って手に入れたとしても、自分が身につけてみると、どうもイメージと違うなということになりかねなくて(笑)。やっぱり加藤さんじゃないと似合わないんですよ。あの長身で、細身。エレガントで公家のような雰囲気があって(笑)。あの雰囲気は誰にも出せないんです。
——当時、キングストン・トリオやピーター、ポール&マリー(以下、PP&M)、ボブ・ディランとアメリカのフォーク・ソングが日本に入ってきて、谷村さんも山本峯幸さん、島津ちづ子さんとともにロック・キャンディーズを結成、PP&Mをカヴァーするようになるわけですが、音源は容易に手に入れられたのでしょうか。コピーをするためには必要ですよね。
谷村
ちょうどLP盤がレコード店に並び始めた頃でしたね。僕らにしたら高価なものでしたから、お小遣いを貯めて、選び抜いて何を買うか決めるわけです。その選択がどんな音楽にはまっていくのか、どんなバンドをやることになるのか、決めていくことになる。僕の場合はたまたまPP&Mでしたが、ステレオ録音の左右のバランスを調整するチャンネルを、左に回すとポールのパートが大きく聴こえ、右に回すとピーターのパートが聴こえるんです。僕はポールのパートをやっていたので、左側ばっかり聴きながら、何回もレコードの針を置き直して、ギターを練習していました。これは延々時間がかかるなあと思っていた頃に、小室等さんが出された教則本の存在を知りました。本を手に入れたら、ほぼ完璧に弾き方を図解してくれていて、一気にコピーが進みましたね。だから小室さんのお陰で、僕らはギターを早く上達することができたようなものなんです。小室さんはそういった意味でも僕にとって大事な人ですね。
——先日、小室さんにインタビュウさせていただいた際におっしゃっていたのは、東京でもラジオの深夜放送以外に洋楽がかかることがほとんどなかったので、FENを聴いていたと。考えてみると米軍基地があった地域では、確かにFENを通してアメリカの音楽に触れる機会があったと思いますが、関西では聴けなかったんですよね。
谷村
確かにそうですね。僕らの周りでFENが話題になることはなかったですね。だから関西ではアメリカのような音楽をつくりたいと思った人が、そんなに多くなかったのかもしれない。アメリカっぽいものがカッコよさの代名詞だったことは確かなんですが、関西だと意外にフォーク・ソングもすぐに日本ぽいものに変わっていきましたよね。オリジナル化したのが早かったというか。僕らもアマチュアでやっていた6年間のうち、高校生だった1年目からオリジナルをつくっていましたから。

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