大阪万博から北米横断ツアー
——1970年に開催された大阪万国博覧会は、全国的にもそうですが、関西では特に大きな出来事だったと思います。
谷村
大阪が一瞬にして変わった、とてつもなく大きな出来事だったと思います。東京が64年の東京オリンピックでドーンと変わっていったのと同じように、大阪は万博。そういった場である万博のステージにアマチュア・バンドの一員として立てたことは、個人的にも大きな出来事でした。とにかく初めて外国人を見たわけですよ(笑)。金髪で青い目をした人は、映画の中にしかいませんでしたから。それが万博会場に行くと、そこらじゅうにいる。その衝撃って、やっぱりすごいものがあって。だからみんなサインもらっていましたよ、外国人だというだけで(笑)。「カナダ館のあの人にサインもらおう」とかね。たどたどしい英語で話しかけると、返事をしてくれる。それだけで喜びもありましたし。
——その万博の会場で細川健さん(アリスも所属していた音楽プロダクション、ヤングジャパングループを71年に設立。音楽制作者連盟の理事長も歴任)と出会ったわけですよね。
谷村
大阪万博のカナダ館に水上ステージがあって、アマチュアの団体(全日本学生音楽連盟)の中から選ばれた何組かが演奏するチャンスをもらったんです。僕らは外国人を前にうたえるだけで興奮していたんですが、うたい終わったときに細川が楽屋に来て、初対面でいきなり「すまん!」とあやまられて。「なんじゃ、こいつは?」と思ったんですけど(笑)。
 細川はバンドと団体の間に立つ役割をやっていたんですが、実は交通費という名目で出演者にギャランティが出ていたと。細川いわく「俺はそれをポケットに入れてトラックを買おうと思ってた」と。こいつ、おかしいんと違うかなと僕は思って。でも、決してイヤだとは思わなくて、好感を持ったんです。こんなふうに正直に自分の本音を口にするやつって、今まで周りにいなかったな、とてつもなく魅力的なやつだと思って、それで「あ、こいつとはひょっとするとなんかすごい縁があるのかな」と感じたんですよ。だからこいつを信じようと思って、「お前らの歌をアメリカ人に聴かせたいんや」という一言を受けて、「よしわかった。行こう」と、二つ返事でその年の夏にバンクーバーにいたという(笑)。
——細川さんがミュージシャンを引き連れて、全くスケジュールも決まってないまま敢行した伝説の北米横断コンサートツアーですね。
谷村
無茶といえばこんな無茶苦茶なことはない。「お金はどうするの?」とか、そんなことも何も考えないまま、「よっしゃ!」と思って飛び出して行きましたから。もう怖いもの知らずでしたね。とりあえずカナダのバンクーバーから北米に入れば、あとはどうにかなるだろうという感覚でした。
——70年ということは360円時代ですよね。
谷村
そうです。持ち出しの外貨が決まっていたので、当然その外貨だけで1ヵ月間も動けるわけがなくて、行く先々で仕送りをしてもらって旅をすることができたんです。
——細川さんがある種の団長みたいなことで、フォークルも一緒に。
谷村
フォークルといっても北山(修)さんと加藤さんですが、お2人は先に戻られたんです。悲惨なところに行ったのは僕ら(笑)。全40日間、カナダとアメリカ各地からメキシコ、ハワイまで行きました。メキシコでは資金が尽きて、細川が「彼らは日本でナンバーワンのアーティストだ」とメキシコ政府相手に嘘八百をかましたんです(笑)。それで僕らはメキシコ・フェスタというお祭りのステージに立った。それを信じさせたというのは細川の人間力だと思いますが、ステージに立つ側からすればものすごいプレッシャーじゃないですか。とにかくステージで吐きそうになりましたから。その後、世界の色々なところでうたってきましたけど、本当に吐きそうになったのは、この時のメキシコ以外であと1回だけ(笑)。ウィーンのコンチェルトハウスというクラシックの殿堂で、シンフォニーと一緒に演奏する直前、オーストリア人の前でドイツ語をしゃべらなくちゃいけなかった時。でも、やっぱりメキシコのほうが緊張しましたね。終わった後は、もう怖いものは何もないと思いましたから。
——向こうへ行って演奏をすること、アメリカやメキシコの人に自分達の音楽を聴かせることが、何かにつながるという考えは別にないんですよね(笑)。
谷村
一切そんなことは考えていませんでしたね。
——でも、お金は出ていく……。
谷村
そうです。ストリートでうたって得たお金しか自分達の手持ちとしてはないわけで、お金がなくなると、食べる物もなくなって生きていけなくなるんだなということをボンヤリと考えました(笑)。1日1ドルも使えないみたいない時は、微妙に切羽詰まってきた感がでてきて。でも、一方で「いや、人はそう簡単に死なないよ」とも思ってた。なんかみんなその逆境も含めて、面白がっていた部分がありましたね。1日1食ハンバーガーとルートビアで、何時に食べると体が一番もつかとか、そんなことばかり考えていましたから(笑)。
——ツアーには70年と71年、2回行っていて、2回目は加藤さんの結婚式も兼ねていたそうですね。
谷村
1回目だったか2回目だったかはもう、僕もはっきりはわからなくなっているんです。いずれにせよウッドストックの翌年、翌々年ですからね。アメリカが本当に一番変貌していく瞬間、街にヒッピーが溢れていた瞬間に、僕らはそこにいたわけで。もう二度と体験できない瞬間であることは間違いないでしょう。

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