あがた森魚が拓いた羽田からの第一歩
——あがたさんとの出会いによって、プロを目指す道筋が広がってきたわけですからね。
鈴木

1973年7月、西荻窪ロフト「春二番コンサート」に
「鈴木慶一&ムーンライダース」として出演。
(PHOTO/桑本正士)

きっかけになった出来事がいくつかあったんです。1969年の終わり頃に、はっぴいえんどがまだヴァレンタイン・ブルーと名乗っていた頃のカセットテープを、あがたくんが聴かせてくれた。ライヴだからすごく音は悪かったけど、日本語でロックをやっていることに驚きがあってね。それと遠藤賢司さんや頭脳警察をテレビ番組『ヤング720』(TBS系列)や深夜番組で観て、やっぱり日本語でうたっていることに驚いた。例えばエンケンの場合、舌をちょっとまるめる歌い方でしょう。後の大瀧(詠一)さんもそうだけど、日本語なのに洋楽的で恥ずかしくない感じに聴こえたことがショックだったんです。これは急いで自分も日本語でやらなきゃと思った。それまで私は日本語で歌詞をつくったことがなくて、デタラメの英語でうたったりしていたんです。日本語で曲をつくり出したところであがたくんと出会って、自分の曲を披露したり、あがたくんが披露したりし始める。バンドをつくって、ライヴもやる。(あがた森魚が通う)明治大学の和泉校舎の学祭に出たり、あとはオーディションに行ったりとか、色々と動き出すんです。
 ライヴはね、あがたくんがバイトしていて、お金が貯まるとやるんです(笑)。どこか小さいホールを借りてね。多かったのは新宿の柏ホールっていうところで、すごく狭いんだけど、2〜3回はやっていますね。発表の場は自分たちでつくらないと、機会がないんですよ。

1973年7月、西荻窪ロフト「春二番コンサート」に「鈴木慶一&ムーンライダース」として出演。(PHOTO/桑本正士)

——レコード・デビューをしたいという気持ちは、どのあたりから出てきたのでしょうか。
鈴木

1972年10月、はちみつぱいの楽屋にて。
(PHOTO/井出情児)

アルバム『アニマル・インデックス』(1985年)
リリース時のムーンライダーズ。

次に1970年の7月、8月くらいに、あがたくんの『蓄音盤』という自主制作盤をつくることになった。私はなんたって宅録高校生だったから、レコーディングの時に役立ったんです。家に1台あったテープレコーダー、親戚の家から借りてきた1台、さらにもう1台加えて3台でダビングしたりしていたから。その時に細野(晴臣)さんの家に遊びにいくんです。「ベースを弾いてください」とお願いするために。1969年、70年というのは、非常に特殊な期間というか、色々なことが高速で変わっていった頃なんですよ。社会的にいえば学生運動が破綻した後で、世の中がどんどん動いていたわけだから、絶妙なタイミングでもあった。ライヴやれば、ミュージシャンもいるし、カメラマンもいるし、音楽関係者もいて、知り合いが増えていく。斉藤哲夫さんとも、渡辺勝にも出会っている。そんな中で自分もいい音楽をやらないといけないなという意識が強くなっていったし、ヘタでもオリジナル曲をつくり続けようと思いました。それが自分のレコードをつくりたいという気持ちにつながったんでしょうね。

1972年10月、はちみつぱいの楽屋にて。(PHOTO/井出情児)

アルバム『アニマル・インデックス』(1985年)リリース時のムーンライダーズ。