俳優である父、映画や音楽にも興味があった「おふくろ」「おじさん」「おばさん」が身近にいた鈴木慶一は、「大人の文化」にひと足早く触れる機会に恵まれた少年時代を過ごした。育った街は東京で最も南に位置する大田区、かつては漁業を営む家も多かった東京湾岸の羽田エリア。後にともに演奏することになる細野晴臣や松本隆が育った港区、鈴木茂や高橋幸宏の世田谷区・目黒区とはまた異なる「東京ローカル色」が強いエリアである。独特な環境のもとで培った音楽の素養、そこから一歩踏み出すきっかけとなった1969-70年の日本のロック転換期。はちみつぱい〜ムーンライダーズでデビューに至る直前までの、鈴木慶一の文化漂流記。

映画、漫画、ラジオで脳が大人化
——音楽のお話の前に、映画や本、演劇などとの出会いからうかがえますか。
鈴木

おそらく七五三と思われる幼少時のスナップ。
右から鈴木博文、鈴木慶一、そして従姉妹であり、
後にムーンライダーズのステージにも参加した藤野(宮)悦子。

生まれた場所の最寄り駅が大鳥居(京浜急行電鉄/東京都大田区)というところだったんです。大鳥居には映画館が2軒あって、1軒は洋画、1軒は邦画。最初に観たのはディズニー映画の『ピーター・パン』だったと思いますが、うちは大家族でおじさんが2人、おばさんが1人同居していたので、連れていかれるんだよね、映画館に。だから大人の映画も観ていました。子供にとっては衝撃的なものが何本かありましたね。取材では何度も話しているけれど、例えば『二十四時間の情事』(『ヒロシマ・モナムール』日仏合作)。うちのおふくろもおばさんも(主演の)岡田英次ファンだったので観にいったんだけど、いきなり砂まみれのベッド・シーンから始まるんです。それがまず怖かった、こっちは子供だから(笑)。広島を舞台にした作品で原爆のシーンも出てくるので、さらにショックを受けて。私は泣き出して、途中で映画館から出てきちゃった。それ以降、1980年代まであの映画は観ていないんです(笑)。

おそらく七五三と思われる幼少時のスナップ。右から鈴木博文、鈴木慶一、そして従姉妹であり、後にムーンライダーズのステージにも参加した藤野(宮)悦子。

——何歳の頃のお話ですか。
鈴木
1959年の公開だから8歳だね。そういった経験をして、だんだん大人の文化に触れていくんですよ。例えば親父(俳優・鈴木昭生)がいた劇団文化座が毎年夏に西伊豆の海で合宿をしていたんですが、私も小学校2年から付いていくようになって、これがまた面白いんです。みんな大人だし、大人の中でもお芝居やっている人たちだから、まあ話が面白い。子供には分からない冗談もあるんだけど、大人にもまれることによって、どんどん身体的ではなくて脳みそが大人化していくということですね(笑)。
——映画以外にも色々な文化を吸収していくわけですよね。
鈴木
漫画はとにかく読んでいました。うちの親は、別に漫画を否定していなかったので、自由に読めた。同級生の中には堂々と漫画を読めない子もいるので、お互いに持っている漫画を風呂敷包みで持ち寄って、うちに集まるようになったんです(笑)。
——『キング』や『サンデー』の時代ですか。
鈴木
いや、もっと前。月刊誌の時代だから。『冒険王』『少年』『ぼくら』……このあたりは全部買っていました。『マガジン』や『サンデー』が創刊されて(1959年)、少年漫画が週刊誌になった時は驚いた。これからは毎週読めるのかと。あとはテレビやラジオ番組だね。当時の日本のラジオ番組のヒットチャートはかなり特殊で、ビルボードとは違うんですよ。アメリカやイギリスの音楽、イタリアのカンツォーネ、フランスのシャンソン、映画音楽などが全部混ざってチャートができていた。さらにはテレビでは洋楽の歌詞を漣健児(草野昌一)さんが日本語に直したポップスが流れていて、それを基準に音楽を聴いているわけで、最初に映画音楽が好きになったりするんです。私も最初に手にしたソノシートは『西部開拓史』だった。これが最初に手にした洋楽の音源ですよ。ベンチャーズとかバンドのレコードを買うのは、その後なんです。
ギターを弾き始めた中学時代
——ラジオといえばFENはどうでしたか。
鈴木
FENも聴いていましたね。でも、一番印象に残っているのは当時ラジオ関東で湯川れい子さんがDJをやっていた『ゴールデン・ヒット・パレード』。この番組で初めて「ブリティッシュ」って言葉を覚えたんです。最初は「プリティッシュ」かと思っていたんだけど(笑)。エルヴィス・プレスリーの「ハート・ブレイク・ホテル」なんかもラジオで聴いているんだけど、あのヴォーカルにかかったリヴァーブの響きがなんか怖くてね(笑)。映画音楽の華やかさに比べると、低音で重い感じが伝わってきたんです。
——ラジオから日々、それまでとは全く違う音楽が流れてきた時代ですからね。
鈴木
そんな中でビートルズの時代が来るわけです。1964年から65年にかけてのことですね。ビートルズがアメリカに上陸するのは1964年で、その手前から若干ブームになってきた。そこから天井が突き抜けるくらいすごかった、1965年のベンチャーズとアストロノウツの来日につながるんです。
 1964年というと私は中学1年だったので、家に帰ったらラジオを聴きつつ、おじさんがギターとウクレレを持っていたので両方弾いていました。同じ年の(鈴木)茂ちゃんの体験と似ているんだけど、テープレコーダーをアンプ代わりにしてね。テープレコーダーのマイクがハウリングする瞬間があって、「これって拡声器と同じじゃん」と気づく。ということはアンプのプラグをインすればギターも鳴ると分かるわけです。誰かに教えてもらえるわけではないんで、そういったことは自分で研究するしかなかったですね。
——ベンチャーズやビートルズの登場で巻き起こったエレキ・ブームは、当時の中学生にとってどんな実感がありましたか。
鈴木
学校でもまあビートルズの存在は知られていましたよ。中学の初登校の日に、斜め後ろにいた男の子から「ビートルズ、全員の名前いえる?」って聞かれましたから(笑)。いえなかったんだよな。結構中学生には難しいですよね、名字も含めると(笑)。家に帰って調べて、翌日いえるようにしたと思いますね。
 ビートルズとか、ヴォーカルが入ったグループには、女子のファンが多いんですよ。男子はインストゥルメンタル・グループ。だから私たちにとってベンチャーズとアストロノウツの来日は、大変なことだったりするんです。後でアストロノウツは、実は半分くらい歌モノだとテレビを観て知りましたけれど。ベンチャーズの老けぶりと比較すると、ビートルズは完全にアイドル顔だから、女性はそっちへいきますよ。ただし、大ブームといえるほどではなかったと思います。ビートルズを知っていたのも1クラス50人として、10人くらいじゃないのかな。中学の各クラスに1バンドは必ずあったとはいえ、誰もがエレキに興味があったわけでもないでしょうしね。