ボロボロになるまで聴いたLP
——そういう意味では早熟だった?
鈴木
今思うと、中学生がどうやってあんな高い楽器を手に入れたんだろうね。これは憶測だけど、大体お金持ちの家の子が1人いて、そいつが全部楽器を買っていたんじゃないかな。大体の場合ドラムを買った子がリーダーになる。値が張るしね(笑)。私の勝手な偏見ですが、うちの学校の周辺では、お金持ちといえば漁業をやっている家か材木屋さんか工場でしたね(笑)。工場経営は我が家でした。60年代に楽器を持ち始めて、70年くらいにバンドを始めた連中なんていうのは、みんなお坊ちゃんですよ。坊ちゃんにも色々レベルはあるけれど、少なくともある程度の余裕はあったんじゃないかな。
——いずれにせよ、音楽や楽器のことはみんな自分で探して、聴いて、調べなくてはいけない時代ですよね。
鈴木
手段としてはラジオと音楽雑誌。私は木崎義二さんが編集していた『ティーンビート』を買っていました。『ミュージック・ライフ』は女性が買うイメージだったな。『ティーンビート』には、ビルボードのチャートが載っていたんですよ。それを見て、曲のタイトルとバンド名に印をつけておくの。勘を頼りに、この曲はいいんじゃないかと。FENで曲がかかっても、英語で紹介されるわけだから正確には誰の曲だか分からない。一生懸命耳を傾けていても、DJは早口で聞き取れないですからね。だから録音するの。オープンリールのテープレコーダーで録音して、確認するんです。ビルボードのチャートを見ながら、何度も聴いてね。そんな毎日なので、勉強なんかするわけないですよ(笑)。
——FENと音楽雑誌をチェックして、曲名、アーティスト名が分かると、どうしてもレコードが欲しいものが出てくるじゃないですか。街のレコード店には売っていないものも多いですよね。
鈴木
中学の時はおふくろにメモを渡して、蒲田のレコード店で「これを買ってきて」と頼んでいましたね。高校になると大井町に中古レコード店の「ハンター」ができて、アニマルズとかも買えるようになりましたし。でも、基本は友たちとの貸し借りですよ。ビッグなミュージシャンは買わないで、友たちに借りる。自分は他のものを買う。あとは録音したオープンリールを聴く。聴き込んだら次の番組を録音していく。借りてきたレコードを、聴き込んでボロボロにして返す(笑)。未だに高校の同期会に行くとよくいわれます。「お前にレコードを貸すとボロボロになって返ってきたなあ」と(笑)。逆に弟(鈴木博文)にはね、「お前はレコードを聴くな」といっていました。すり減るから(笑)。弟はずっと恨みに思っていたようで、私がいない時なんかにコッソリ聴いていたようですね。
かけもちの演劇部では音効を担当
——中学ではまだバンドは組んでいなかったのでしょうか。
鈴木
ちゃんとは組んでいません。ギターのうまかった友たちがいたので、2人でPPM(ピーター・ポール&マリー)をやってはいましたけれど。おじさんが持っていたギターは、マイクが1個ついたセミアコだったんですが、その後ソリッド型のエレキ・ギターを買ってもらって、ずっと練習していましたね。メチャクチャ弾きにくいギターだったな。1年後には、12弦のアコースティック・ギターを買ってもらいました。今でも憶えていますが、エレキは当時1万9000円だった。12弦もそんなものだったと思います。現在の金額だと10数万円くらいか。親戚のおじさんとおばさんに、「ギターなんて高いのに、1年も経たないうちにもう新しいものを買ってもらって……」と怒られましたよ(笑)。とにかくギターは毎日弾いていましたね。朝、学校行く前に弾いて、帰ってきて弾いて。映画も観なきゃいけないから、本当に忙しかった(笑)。
——高校(都立羽田高等学校)では演劇部に入部されるわけですよね。
鈴木
演劇部だけじゃないんです。部活にすごくたくさん入っていたんですよ。中学で陸上、バスケット。高校に行って1年生の時はサッカー、ワンダーホーゲル。合唱部にも1年の時にスカウトされて入った。演劇部は2年から。演劇部の部長が面白いやつでね。ビートルズの『サージェント・ペパーズ~』を持っていて、全曲うたえるというんですよ。未だに付き合いがあるけれど、彼に引っ張られて演劇部には入ったんです。
 演劇部には後に、はちみつぱいの「煙草路地」や「月夜のドライブ」をつくることになる、亡くなった山本浩美もいたんです。それと田中部長、私。あとは女性だらけ。そのつどスカウトしては8ミリ映画を撮ったりしてた。3年になって、演劇部はもう俺たち辞めるから、あとは後輩に任す感じになって、最後に何か画期的なことを一発やろうよと話しました。クラスが違ったのでバラバラに。それでクラスごとに私はミュージカルをやって、部長は羽田小劇場と題して(笑)、小劇場風の芝居。山本浩美は音楽部でオペレッタをやっていました。ミュージカルをやったといっても、私の役割は音効さんみたいなものです。ギターを自分で弾いて、フルートを吹けるやつ、ベースを弾けるやつを探して伴奏を担当して生演奏で。作曲はすべてやりました。作詞は澁木という男が担当。数人で台本を書いてね。キャスティングはお願い、お願いで。最初は拒否されたけどなんとか説得して。そっぽむいてた連中も直前に大道具とか作ってくれて。感動的な一体感でした。
——非常に活動的な高校時代だったんですね。
鈴木

はちみつぱいのメンバー、
そしてあがた森魚さんと。(PHOTO/桑本正士)

とはいっても行動範囲はクローズドなものですよ。それこそ渋谷なんて行ったこともないし、せいぜい蒲田、大井町、大森、品川。そのエリアから出たことがなかったわけだから。映画でいえば「『ラスト・ショー』(ピーター・ボグダノヴィッチ監督)みたいな毎日だったな」と田中部長と卒業後話していました(笑)。
 高校卒業が1970年、18歳の時にあがた(森魚)くんと出会って、外に引っ張りだしてもらったようなものです。おふくろがたまたま、蒲田であがたくんと同じところに勤めていて、「うちにちょっと来なさいよ」と声をかけた。それで紹介してもらうんだよね。本当におふくろには頭が上がらないっす(笑)。

はちみつぱいのメンバー、そしてあがた森魚さんと。(PHOTO/桑本正士)