理想の寄り道ができる坂
——先程ボードレールの話が出ましたが、詩や文学に興味を持ったきっかけは。
松本
小学生の頃、最初に読んだ本は江戸川乱歩の『少年探偵団』シリーズだったと思う。それと父親が月1で買ってきていた講談社の『少年少女世界文学全集』と『少年少女日本文学全集』。それぞれ全50巻くらいあって、書棚はいっぱいになるんだけど、全部読みました。あとは小学校の図書室にあった『ドリトル先生』と宮沢賢治。宮沢賢治は、ほぼ全部読んだと思う。乱歩の流れで、ペンネームのもとになったエドガー・アラン・ポーも読んで、次にボードレールを手にした。ポーとボードレールはわりと近いんだよね。中学1〜2年になると、お小遣で好きな本を買えるようになって、ジャン・コクトーが好きになった。小学校5〜6年と中学1〜2年の読書体験で、実は僕の知性のベースがほぽでき上がっていたのかもしれない。
——小中学生の頃ですと、漫画の影響も大きいですよね。
松本
貸本屋に白土三平のシリーズが置いてあってね。ものすごくマニアックな内容なんだけど、『忍者武芸帳』とかが好きでした。貸本だから手あかがつかないように、薄いパラフィン紙みたいなものでくるんであったのを憶えている。
青山の根津坂(北坂)の途中に貸本屋と模型屋があったんです。片側は根津美術館の長い塀で、下り坂のちょうど半分くらいのところに模型屋。下り終わってちょっと行ったところに貸本屋。この坂にいつも遊びにいっていた。
——模型屋と貸本屋があるなんて、少年にとっては理想の寄り道ができる坂ですね(笑)。

19歳にしてこのスーツ姿。1968 年の松本隆。

松本
その坂を上りきったところに母校の青南小学校があってね。下り終わると霞町なんだけど。今の西麻布のあたり。左の墓地沿いに行くとわが家がある。
——漫画も貸本から市販の少年漫画誌の時代になっていきます。
松本
漫画雑誌では『少年』『少年画報』『冒険王』。好きな漫画は『まぼろし探偵』と『月光仮面』でした。『少年マガジン』と『少年サンデー』が出たのは、小学校4年の時(59年)。自分で描くのも好きで、漫画家になろうと思った時期もあったな。小学校の時、同級生に頼まれると休み時間に描いてあげた。ノートの白紙のところに。そうすると行列できたんです(笑)。
——例えばバーンズのメンバーだった方にお話を伺うと、みなさんがおっしゃるのは、高校生の頃から松本さんはいつもドラムのスティックを持ち歩いていて、漫画雑誌を叩いて練習していたと。
松本
『少年マガジン』と『少年サンデー』は、いつも叩いていたからボロボロになっていました。いい音がするんです、厚めの雑誌は(笑)。

19歳にしてこのスーツ姿。1968 年の松本隆。

ヌーヴェルヴァーグへの目覚めとドイツ人女優
——最初にお話しいただいた映画については、例えば成長するにしたがって観る作品が変わってきますよね。
松本
中学年になると、後にはっぴいえんどのマネージャーになる同級生、石浦(信三)くんとアラン・レネや(フランソア・)トリュフォーの映画を観にいくようになりました。(ジャン=リュック・)ゴダールとか、フランスのヌーヴェルヴァーグは、はっぴいえんどの頃に手当たり次第観ましたね。
そういった映画の好みのベースになったのは、小学校4〜5年生の時に観た『死の船』(60年公開)というドイツ映画がなんです。僕もずいぶん探したけれど、これはおそらくDVDにもレーザーディスクにもなっていないんです。だからあくまで記憶だけで話すと、どこかの港(ベルギーのアントワープ)の場面は憶えていて、船員が娼婦のいるようなホテルから出てくるシーンだった。ちなみに「冬のリヴィエラ」の詞は、この映画の記憶から発想しているんです。

「エイプリル・フール」のメンバーと共に。

——その作品はどこの映画館で当時ご覧になったのでしょうか。
松本
渋谷のパンテオンだったから、普通はメジャーな映画をやる映画館だよね。でも、ものすごく地味なドイツ映画だから、全くヒットしなかったんじゃないかな。エルケ・ソマーというドイツの女優が出ていて、僕は彼女のファンになった。色っぽいお姉さんだったな(笑)。そのあと『甘い暴力』(63年公開)というフランス映画に出演して、結構当たったんです。ちょっとヘンな女優趣味だよね。子供なのにドイツの女優が好きなんて。
——早熟というか、独特というか(笑)。
松本
僕はアメリカよりヨーロッパのほうが好きだったんです。ファッションのブランドでいえば、VANとJUNだったらJUN。これは僕の周りの中でも、独自のセンスでね。例えば細野(晴臣)さんはずーっとアメリカ好きだから。ヨーロッパ的な感覚に接近したのはYMOの時代くらいでしょう。

「エイプリル・フール」のメンバーと共に。