中学から慶應義塾で学生時代を過ごした松本隆さんは、中学時代の終わりから同級生とバーバリアンズというバンドを組み、高校に入ってからはバーンズと改名。大学でも活動は継続され、在学中にエイプリル・フールの一員としてプロ・デビュー。こう記すと音楽一辺倒の学生時代だったように思えるが、松本さんの文化的嗜好は多岐にわたっていた。少年時代から銀座で封切りの大作を観て、成長とともにフランスのヌーヴェルヴァーグ作品へと映画に対する興味が深まっていく。地元・青山では白土三平の『忍者武芸帳』を読むために貸本屋に通う一方、ボードレールからコクトーへと読書遍歴を重ねる。鉱石ラジオを手に入れた渋谷から行動範囲を広げ、新宿ではアングラ演劇とATG映画に出会う。街と文化が結びついた、これらの体験のすべてが、はっぴいえんどで「日本語のロック」を生み出すことにつながっていった――。

ハンドメイドの電気蓄音機と鉱石ラジオ
——音楽との出会いからお話を伺えればと思います。
松本
父親は大蔵省に勤める堅い人だったけれど、友達にオーディオ・マニアのエンジニアがいたんです。その人が自作の電気蓄音機をつくっていて、小学校4年か5年くらいの頃、父親がそれを持って帰ってきた。当時はまだステレオではなくモノラルでしたけどね。それでも普通の家庭では卓上ラジオみたいなものを聴いている時代に、いきなり洗濯機大の電蓄が家に届いたから驚きました(笑)。かけるレコードが家になかったから、朝日ソノラマ(当時、朝日ソノプレス社)から出ていた、ソノラマ(ソノシート+印刷物)を手に入れて映画音楽とかを聴いていましたね。
もともと親が映画好きだったので、映画音楽は身近なものだったんです。子供の頃から、よく映画館にも連れていってもらいました。大型スクリーンのシネラマとか、70mm(スーパーシネラマ)で上映する映画館で、『ベン・ハー』(1960年日本公開)や『七人の侍』(54年)を観ました。(アルフレッド・)ヒッチコックもわりと好きだったな。ヒッチコックは音楽もいいじゃないですか、『白い恐怖』(51年公開)とか。『七人の侍』は銀座で観た記憶がありますが、銀座で映画を見ると必ずスエヒロでハンバーグを食べて帰るんだよね(笑)。帰り道で銀座線の外苑前の駅に着いたら、車両が燃えちゃったことがありました。ボヤくらいのことで被害は出なかったと思うけれど、モウモウと流れる煙の中を家族みんなで逃げたことを鮮明に憶えている(笑)。
——ご無事で何よりでした(笑)。ソノラマだけではなく、レコードで色々な音楽も聴くようになっていくわけですよね。
松本
きっかけは、おじいちゃんですね。母親の実家が伊香保で、おじいちゃんは群馬県で2番目に運転免許を取った人だったそうです。写真館をやっていて、いつも帽子かぶって懐中時計を持ち歩いているハイカラな人で。おじいちゃんには、ひらがなよりも先にローマ字を教わりましたから(笑)。この人が手回し式で大きなラッパ(音を出すホーン)がついているSPレコード・プレーヤーを持っていて、聴かせてもらったのが最初です。そんなにマニアックじゃないジャズだったかな……おそらくグレン・ミラーとかそんな類いだったと思うんです。それとベートーヴェンのレコードもあったような気がする。
それは小学校の時の話だけれど、中学1~2年生くらいに、自分のお小遣いで初めてレコードを買いました。それがリトル・ペギー・マーチの「アイ・ウィル・フォロー・ヒム」(63年)のシングル。次がザ・カスケーズの「悲しき雨音」(63年)あたり。こういった体験は大瀧(詠一)さんとそんなに変わらないと思う。
——松本さんはレコード・プレーヤーが身近にあった恵まれた環境でしたが、当時、音楽への入口として一般的なのはラジオですよね。

1969年、「エイプリル・フール」に参加した頃。

松本
最初に手に入れたのは鉱石ラジオだった。たぶんソニー(当時、東京通信工業)のトランジスタ・ラジオが(55年に)日本で初めて発売された後だったと思うけれど、高かったから買えなかったのかな? 自分で組み立てるキットを、渋谷に買いにいったのを憶えている。ねじ回しは得意だったから組み立てて、夜中に聴くんだけど、ハングルとロシア語しか聴こえてこない(笑)。北朝鮮とソ連からの電波が強力で。電圧が低い日本のAM放送は途切れ途切れでやっと聴き取れる感じで。FENも入るんだけど、やっぱりそんなに圧力はないんだよね。
ラジオで憶えているのは、ドラマの『氷点』に出ていた内藤洋子が「白馬のルンナ」(67年)という曲を出して、真夜中にそれがラジオから流れてきた。それで聴いているこっちはベッドから転げ落ちたわけ(笑)。女優さんだからしょうがないけれど、あまりの歌のヘタさにずっこけたんです(笑)。

1969年、「エイプリル・フール」に参加した頃。

アメリカのライフスタイルは南青山にあった
——テレビは物心ついたときから家にありましたか。
松本
テレビで『月光仮面』が始まる時間だから家に帰らなきゃと思っていたのが、確か小学校2年くらいでしたから、その頃にはもうあったのでしょう。
——アメリカのTVドラマを見て、アメリカ文化を知ったという話は、松本さん同世代の方からよく伺います。
松本
『うちのママは世界一』(59年より日本で放送/原題『ドナ・リード・ショー』)とか、アメリカのホーム・ドラマの影響は確かに僕も受けていて、松田聖子に詞を書いていた時代まで引きずっていたと思います。
——ホーム・ドラマの中のライフスタイルが、ファッションを含めて当時の日本の子供達からすれば輝いて見えたのでしょうか。
松本
でもね、僕の育った南青山は、ある意味、アメリカとそれ程差がなかったともいえるんじゃないかな。米軍放出品のすり切れたジーンズが「EIKO」(青山店61年オープン)というお店には売っていたわけだから。友達が買ったのを見て「僕も欲しい」といったら、母親が「中古品になんでそんな高いお金出すの。新品にしなさい」って、新品を買ってくれた(笑)。「キディランド」(前身の橋立書店が原宿に50年開店)も小学生の頃にはすでにあって、その2軒がアメリカの最先端のファッションやおもちゃを運んできてくれたんです。
——映画や音楽、文学などに対して早熟な子供は、お兄さんやお姉さん、あるいは両親の影響を受けている場合が多いですが、松本さんは長男であり、お父様は先程おっしゃられたように堅いご職業の方ですよね。なぜ、松本さんは文化に目覚めるのが早かったのでしょうか。
松本
自分でも分かりません(笑)。突然変異なんでしょうね。でも、父親は(シャルル・)ボードレールの『悪の華』の文庫本を持っていたんです。それを盗み読んで怒られるわけだけど、それくらいの詩心はあったんじゃないでしょうか。大叔父に漢学者がいて、その人が「隆」という名前をつけてくれたり、多少は文化的なことに興味がある家系ではあったのかもしれません。
——お父様は松本さんが音楽の道に進むことに反対だったのでしょうか。
松本
反対だったね。でも「ドラムが欲しい」といったら、ポンと買ってくれたんですよ(笑)。
——その辺りがアンビヴァレンツというか……(笑)。ドラムという楽器を選んだのは、何かきっかけがあったのでしょうか。

1968年、中学からスタートしたバンド「バーンズ」に
細野晴臣が参加した頃。

松本
特にはないんだよね。バンドをやることになると、だいたいみんなギターを希望して、おとなしい順にベース、ドラムになっていくんですよ(笑)。一方で当時はバンマスというとドラマーが多かったことも事実だけど。
——この曲を聴いてドラムを叩きたくなったという記憶はありますか。
松本
デイヴ・クラーク・ファイヴの「グラッド・オール・オーバー」(64年)。「グラッド・オール・オーバー」は、ずっとUKチャートで1位だったビートルズの「抱きしめたい」にストップかけて、1位になった曲なんです。

1968年、中学からスタートしたバンド「バーンズ」に細野晴臣が参加した頃。