目的は「ブルースを腹一杯やりたい」
——大学に入られて、音楽を生業にしようと思った瞬間はあるんですか。バンドで食っていきたいという気持ちは。
鮎川

1971年、サンハウスで活動を開始した頃

そんな願いは中学の時に、一回降ってきました。「母ちゃん、俺は作曲家になるけん」と、一度だけいうたことがある。曲をつくって演奏して、それで暮らしていけたらちゅうのは、一回は降って湧いたけど、その後は忘れとった。時々フッと思い出していたとしてもね。実際、ジ・アタックに入って、20万円をメンバーみんなで4万円ずつ分けたりする生活やら、すごい大変やったし。
 ダンス・ホールもいくつか潰れたり、バンドも解散したり。やっと70年にブルースをやりたい連中でサンハウスをつくることになって、幸せやったのは、職場があったことです。雇ってくれるダンス・ホールがまだあったから。[ハニー・ビー]ちゅうところで、71年から僕らは給料もらいながらやって、2軒目が[ヤング・キラー]。6ヵ月くらいの長い契約で、もうやりたい放題、試し放題、練習のし放題。色々な古いブルースを、自分らが手に入るかぎりの音楽ソースを、自分らのアレンジで。ストーンズの『スティッキー・フィンガーズ』ちゅうのに入っていた、古いカントリー・ブルースで「ユー・ガッタ・ムーヴ」。フレッド・マクドウェルの曲を、ちょっとボトルネックでギューンち弾いてね。ああいうアプローチもずいぶんやった。それが1971年くらい。

1971年、サンハウスで活動を開始した頃

——鮎川さんが「ダンス・ホール」とおっしゃられている場所は、東京だとディスコですか。
鮎川
ジャズ喫茶でしょ。ACB(アシベ)とかの。福岡はダンス・ホール、「ホール」なんですよ。ボックス・シートが並んでいて、踊るかとなると、ホールに出ていって、昔だったらジルバを踊ったり。エレキ時代が来て、昔のチャチャチャやらチャールストンやらを演奏しよったバンドから、エレキバンドに変わって。ブルーコメッツやスパイダースの曲をしたり。知っている曲が流れると、みんな踊る、踊る。
——ハコバンだと、お客さんが踊れる曲をやらなきゃいけないという縛りはあったんですか。
鮎川
そう、踊れる曲も安全パイで用意しとかないかんのですね。でも、僕らの目的はブルースを腹一杯やりたいちゅうか。そやけん、目つぶってくれたの、ホール側が。僕ら真面目やったし、一生懸命音楽を研究ちゅうか、高め合おうとして演奏しよったから。盛り上げようにもお客さんがね、徐々に減っていたこともあって。かなり少なくなっていた。
——サンハウスでは、レコード・デビューされましたが、デビュー後も変わらず福岡から発信したいという意志があったというか、東京に住むことを避けていたのでしょうか。
鮎川

1977年のサンハウスのアーティスト写真

ああ、それは当時僕らがよくいっていた夢やったんです 。リバプールのビートルズ、ニューヨークのヴェルヴェット・アンダーグラウンド、メンフィスのブッカー・T&ザ・MG's、サンフランシスコのグレイトフル・デッド、ロサンジェルスのドアーズ……みたいに、せっかく福岡におるんやけん、僕らは福岡でやっていいんだ、そういう時代が来るんだと。東京はね、なんか情報を発信しているみたいにしとるけど、「なんがすごいか」ちいうて、ひがみ根性なんですよ(笑)。もともと僕らデビューなんかできるっち思ってなかったし、別にレコードをつくるのが夢でもなんでもなかったし、お金儲けなんかできっこないちゅうくらいに、はるか別の世界のことだと思っていて。僕らが考えていたのは、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドやらキャンドヒートやらフリートウッド・マックやらのような音を出したい、チキンシャックやクリームに近づきたいっちゅうか。もっともっとレパートリーを増やすために、元になるブルースをたっぷり聴きたい。そんなことが自分らの喜びやったし、東京に行ってスターになるとか、ヒット曲を出すとか、僕らとは関係ない世界だと思っていました。

1977年のサンハウスのアーティスト写真

思い焦がれて音楽に向かうだけ
——当時、芸能界的な場所とは違うところから、東京でもバンドが出てきている認識はありましたか。例えばエイプリル・フールというバンドがいるらしい、はっぴいえんどがデビューしたとかという。
鮎川
もちろん、エイプリル・フールとはっぴいえんどは、僕らもチェックしとったし。シーナ&ロケッツで東京に出てきた後でも、そりゃあもう細野さんでも(高橋)幸宏でも、みんなそれぞれ素晴らしいし、色々な音楽を追求しよるし。いっぱいおりますよ、素晴らしいミュージシャンは。志や研究しているテーマは立派だと思っていたし、曲をつくったり詞も書いたり、すごいなあと。
 ただ、毎日お客さんの前で、3時間も6時間も演奏して、日曜日は9ステージやっているような僕らバンドとは違うなあと思っていました。僕らには目の前のお客さんのことばかりが、ずーっと頭にあったし、お客さんに向けてやるちゅうか。雇われとる職業バンドの発想ちゅうか、住み込んでやりよるバンドだから。お客さんは毎日バンド目当てに来るんじゃないんですよ。それでも受けないかんし。自分らが励んできたブルースは、佐世保の基地に行ったら「I don’t like」。マディ・ウォーターズちうても「I don’t like」(笑)。ザ・フーの「無法の世界」をダーンとやると、ワーッちなったりね。それはもう受けないといかんけえ。受けるちゅうことは、ものすごい僕ら、真剣に考えました。
——ブルースをそれだけ深く追求した背景には、久留米や福岡という土壌も影響しているのでしょうか。
鮎川
東京やから、福岡やからどうちゅう、地域の問題じゃなくて、パーソナルの問題と思う。僕はブルースやロックに興味があったし、仲間もそれに興味があった。柴山さんも、どんどんどんどん深く掘っていく。それは個人の問題。福岡のメディアだって無難な選曲をしているのがほとんどで、反骨心を持ったDJだけがロックをかける。東京でも福岡でも大阪でも同じで、そんなロックのことやら、真剣に考えていた人は少なかったと思う。でも、僕らはロックに憧れがあったし、ロックがすべてやった。それは人間の問題やと思う。
 めんたいロックだから福岡だからちいうても、なんの関係もない。個人が思い焦がれて音楽に向かうだけですよ。まあ、情報交換はありますよ。「あれいいよー」とか「ロバート・ロックウッド・ジュニアの弾き方すごいね」とか。情報交換はどんな地域でもやっていると思うけど、まずは本人が思わんとさ。音楽をやりたい、夢に見るようなサウンドで、こんな音楽ができたらいいと。それがすべてですよ。

シーナ & ロケッツ ディスコグラフィー ≫