1968年、後に数多くのロック・バンドを輩出することになる九州エリアの中心地・博多の街を、華がある顔立ちと人目を惹く長身の青年が足早に歩いていた。大学に通うための定期券を手に、久留米からやって来た青年の目的地は、ダンス・ホール。そこに出演していたバンド、ジ・アタックに会うためである。2年後にはギタリストとしてサンハウスに参加し、75年にレコード・デビュー。永遠のパートナーといえる故シーナさんと1978年にシーナ&ロケッツ結成以降は、東京へと活動の拠点を移すその青年・鮎川誠は、中学時代からロックやブルースの情報を入手することにかけては久留米でも人一倍熱心だった。とにかく夢中で仲間と音楽を聴き、ギターを学んだ日々——60年代、鮎川誠のロック/ブルース探求記。

VディスクとFENが開いたロックの扉
——初めて音楽と接した頃のお話からお伺いできれば。
鮎川

鮎川誠、5歳の頃

僕の場合はものすごく特殊やったと思うんです。父がアメリカ人でね、米軍で久留米地区の担当しよった将校やったんですね。それでうちの母と好き合うて、僕が生まれた。家にはコロムビアのポータブル・プレーヤーがあったんですよ。手巻きでボックス式。Vディスクちいう軍専用の2曲入りのレコードもかけられて。普通のSP盤は1曲入りやけど、Vディスクちいうのは2曲ずつ入っとるの。そのVディスクがいっぱい家にあって、フランク・シナトラとか、そういうのをなーんもわからんで、よく聴きよったんです。子どもの頃、4つ、5つくらいから。
 小学校も後半になると、石原裕次郎ちいうアイドルが登場して、映画の主題歌がヒットするようになる。『嵐を呼ぶ男』(1957年)ちいうのがあって、それは買ってもらえんかったけど、『紅の翼』(58年)はSP盤で買ってもらって。子どもの頃から、レコードを触ること、再生することには、ものすごい興味があったね。当時、南極に残された犬が生存していた話が大ブームになって、曲にもなってね(「タロー・ジローのカラフト犬」58年)。B面がマーティ・ロビンスの「エル・パソ」ちゅう、これが素晴らしい名曲。ボブ・ディランも認める。「エルパソ」を聴くために、友達の家に遊びにいったりして。小学校が終わって中学に入ったら、ジーン・ヴィンセントやクリフ・リチャードとシャドウズはもうおるけん、ラジオで聴き始めて。それとレイ・チャールズの「ホワッド・アイ・セイ」。あとは鈴木ヤスシが「ジェニ・ジェニ」と歌うのがカッコよくて、元曲がリトル・リチャードということも突き止めた。中学2年くらいの頃は、レイ・チャールズかリトル・リチャード、もうそれしかないちいう感じになったね。

鮎川誠、5歳の頃

——音楽を聴いていたのは、主にレコード・プレイヤーからだったのでしょうか。
鮎川
中学3年の終わり、高校受験が始まった頃に、FENを聴くようになって、ビートルズと出会うんです。その時はもう、アメリカ上陸しとるから、FENで「ビートルズ!」「ビートルズ!」って、どんどんいいよるけれど、頭の中で「ビートルズ」ちいうカタカナになかなか置き換えられんの。「ビールルズっちゃ、なんけ?」って、みんなでいっていたけど、誰もわからんよね。やっと卒業する間際に、弁当を包んだ新聞を見たら、カタカナで「ビートルズ」と書いてあった。ああ、これだとなって1964年、ビートルズを手みやげに高校に入るんです。アルバムの『ミート・ザ・ビートルズ』が出ていて、「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」はカッコいいし、僕には「ドント・バザー・ミー」がものすごいズンズンきた。あのせつない感じが。ボサノバも入っとるしね。
 高校(福岡県立明善高等学校)は地元の進学校で、遠くからたくさんの師弟が来るけど、気の利いたやつも多くて。裕福な家の人も多いけん、たいがいステレオも持っていた。ビートルズもほとんどの人が知っとる状態で、僕の高校生活が始まったんです。1964年はビートルズ一色やったけど、すぐにデイヴ・クラーク・ファイヴやらアニマルズやらキンクスを聴くようになって、最終的にはローリング・ストーンズがとどめになるんです。
納屋の2階のビートルズ、すべての始まり
——ギターに対する興味はどのあたりからですか。
鮎川
ギターはね、母がガット・ギターを小学5年の時に買ってくれたんです。六ツ門の楽器屋さんで、教則本と一緒に4500円くらいだったと思う。ただ、それを弾きよったのは、3日坊主もあらん、2日坊主くらいで終わって。しばらくは忘れていたんだけど……高校2年の2学期に文化祭があって、新聞部が出しているブースで、ビートルズをジャンジャンかけよるけ、もう新聞部に入ろうちゅうことになって。入ってからは部室で電球のソケットを外して、誰かが持ってきたプレーヤーをつないで、レコードを聴いていました。学校ではもちろんそういうことは禁止されとるけど、部室はわりと無礼講なところがあったので。そのうちエレキ・ギターを売るっちいう友達が出てきて、やっぱりマイ・ギターがほしくなってね。テスコのギターが新品でも8500円、それを「4500円で売るけ、買わんか?」ちいう話で。修学旅行のお金くらいしか、僕の自由になるお金はなかったので、「先生、修学旅行に行かんから、お金返して」ちゅうて、そのお金で友達からギターを買ったんです。
 最初は弦楽部でコントラバスをやっているやつにポールが弾いていたラインをやってもらって、僕はコードが載った本を見ながらチャラララララ〜と合わせてね。「オール・マイ・ラヴィング」の2つの音が重なっただけで「これ、ビートルズやんけ」って、もう鳥肌体験だったね。

1963年、15歳の頃
HONDAのバイクにまたがって

——その時の体験がバンドにつながっていくわけですね。
鮎川
1966年、高校3年になって、街の目抜き通りの本屋さんで立ち読みしよったら、小学校のときに野球しよったやつが声かけてきて、「いま俺、ドラム叩きよるけど、今日バンドで練習するんよ。見にこんね?」と。それでバイクの後ろに乗せてもらって、あぜ道をずーっと行ったら、農家の納屋の2階に、見知らぬやつがあと3人いて。その中のヴォーカル担当らしき人が、「ギター弾ける?」って聞いてきたけん、「うん、ちょっとくらいなら」って。「『デイ・トリッパー』は弾けるけど」っていったら、ギターをポンと渡されて、いきなりドーン、ガガガ〜で。完璧な合奏で、ビートルズが再現できていて、もうその時がすべての始まりですね。相手が知らないやつでも、何年生だとか関係ないんですよ。「デイ・トリッパー」を弾きよんですよ。ヴォーカルがジョンみたいにもみあげが濃ゆいやつで(笑)、力強い歌を歌うけん、すごいと思ってさ。そばにおるけど、いきなりファンになって。僕もコーラスで追いかけて。彼の名前を知る前に、ビートルズ1曲、一丁上がりでしたね。

1963年、15歳の頃。HONDAのバイクにまたがって

——それはかなり強烈な体験ですね。
鮎川
そのまま僕は認められて、次は「ロックンロール・ミュージック」をやろうちゅうことになった。ヴォーカルが歌い出したときに、「まこちゃん、これをやって」と手ほどきを受けて、僕はAのコードちゅうのを指を広げて、ガガーンガン、ガガガンち、「あー、これか!」となって。やった! すごいもんを教わったと思って、これでなんでもできると思ったの。
 それとチョーキングって今は誰でも知っているけど、「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」やらの、キューンちいうあの音がね、新聞部でもみんな「なんであんな音が出るん?」といっていたのが、手ほどきされて「まこちゃん、こう指で弦を上げると、弦を」と教えてもらった。もう1つ教わったのが、普通に弦を張ると硬くて弾きにくいから、細いやつをズラして張って、やわらかくするとキューンが決まるということ。もう目からウロコで、その日教わった2つか3つのことをやり続けているという意味では、僕のギターは今日に至るまで変わってない(笑)。
 そのバンドは、夏に納涼大会の時のプールサイドのコンサートに出演することになっていて、みんな集まっとったの。本番に向けて何度も集まって練習して、レパートリーは「イフ・アイ・ニード・サムワン」(恋をするなら)とか「イエスタデイ」とか、ビートルズが8曲くらいで、あとはストーンズの「一人ぼっちの世界」とヤードバーズの「フォー・ユア・ラヴ」。僕はプールサイドでエレキ・バンド・デビューをしたんです。

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