「本物のバンド」にハーモニカで挨拶
——大学受験も近づいていた時期だと思いますが、そんな体験をしてしまうと、勉強には戻れないですよね(笑)。
鮎川

1966年、グヤトーンLG-65Tを弾く
18歳頃の鮎川青年

一回バンドで合奏したあの喜びを体験したら、もう教室に戻って、先生が黒板に書きよるサインだ、コサインだ、タンジェントだなんて、遠い世界のことみたいに思えてきて。勉強に熱が入らんかわりに、「あの曲のあそこはこう弾くんだ」とか、「コードが変わるとこ、あそこはどうしたらいいんだろう?」とか、もうずーっと音楽のレパートリーのことを考え出していました。だけん、大学も落ちよって、67年は浪人でした。
 浪人の終わり頃、1967年の11月か12月くらいに、友達が本物のバンドを目撃したんです。血相変えて僕のところへ来て、久留米の六ツ門ちいう一番目抜き通りに、5人のすごい男たちが立っとったと。全員ミリタリー・ルックで、タータンチェックの赤い細いズボンに、編み上げブーツを履いて、髪はみんなほどほど長い。「きっとあれはバンドだ! ものすごいカッコよかった」ちうて、それでいろいろリサーチしたら、久留米にある[キング]というダンス・ホールにハコバンで入っているバンドだと。福岡からやってきて、2ヵ月とか3ヵ月間、出演していることがわかって。ジ・アタックという名前だと。んでもう僕は無性に会いたくなって。
 ダンス・ホールは高校生禁止やったんですね。映画館だって禁止やったから。まだそういう時代だったし、エレキやらダンス・ホール、そういうのはもう、固く禁じられとるけど、僕を最初にバンドに引き入れたサブちゃんが「一緒に行こう」といってくれて。サブちゃんは、わりと地元の悪いやつで(笑)、ダンス・ホールの兄ちゃんたちとも会話ができるようなやつやったから。まだ早い時間、本番が始まる時間に[キング]に行ったんです。

1966年、グヤトーンLG-65Tを弾く18歳頃の鮎川少年

——かなり勇気のいる行動ですね。
鮎川
どうしたかというと、僕は[キング]の入口でハーモニカを吹いたんです。いきなり。ジョン・レノンやったら「恋するふたり」か「ラヴ・ミー・ドゥ」。キンクスやったら「イッツ・オールライト(それでいいのさ)」。ストーンズにいた当時のブライアン・ジョーンズやったら「ホワット・ア・シェイム」。覚えたてのハーモニカのフレーズを何気に吹きながら、ホールに入っていったんですよ。音が響いて、曲の相談しよった5人がいっせいにその音に反応して、バッと入口のほうに視線が集中して。僕は「やったー」と思いました。「認められた!」と思ってさ。音に反応する5人が素晴らしいと思ったんよ。もう完全にわかっとる人たちやと。5人が同時にバッと見たからね。
——入口から誰かが吹いているハーモニカのフレーズが聴こえてくるなんて、映画のワンシーンみたいですね(笑)。
鮎川
自己演出としては大したもんやと思うけど(笑)。それですべてのコミュニケーションが始まって、認められたし、僕も認めたし。
——それでジ・アタックに加入することになったのですか?
鮎川

60年代末、九州大学
六本松キャンパスでのスナップ

いえいえ、1967年にジ・アタックと出会った時、僕は浪人だし。とりあえず九大(九州大学)にもぐり込むことしか考えてなかった。「九大を受ける」ちいったら、先生に「お前、アホやないんか。そんな成績で何が国立か」とかいわれよったけど、低所得の母と2人で暮らしよったから、九州で学費の安い国立しか考えられんかった。それと大学に入れば思いきりロックができる気がしてたから。楽しみは後回しちう気持ちが自分にはあったんですね。大学入らんと、ロックやってるなんて、ものすごく風当たりが強かったしね。卒業して就職したら、もうロックと近づけんかもしらんちゅう予感もあったんです。
 でも、誘惑に負けて、ジ・アタックに会いにいくと、彼らが「ステージで遊んでいけ」とかいうんです。お客が入ってくる前のステージで、好きなようにやっていいみたいに。スタジオもない時代だし、そこにはアンプもあるし、それでバンドのメンバーと一緒に行って、自分らの覚えたての曲をやったり。そんな感じやったけど、ジ・アタックはその後、福岡に戻ってしまって。

60年代末、九州大学六本松キャンパスでのスナップ

——最初に一緒にビートルズを演奏したバンドは、どうなったのでしょうか。
鮎川
年が明けた1968年に、また友達から、博多駅前に[フォーカス]ちう、体育館みたいにとんでもなく広いダンス・ホールがあるという話を聞いてね。そこにはゴールデン・カップスやグループ・サウンズのバンドが来たり、普段出演しているのも福岡で超一流のバンドだと。そこでオーディションがあるっちゅうことを、メンバーの誰かが聞きつけて、「受けろうぜ」ちいうことになった。受験の1ヵ月くらい前やったかな、オーディションを受けにいった 。
 自分らの番が来たのはいいけど、ベースのやつが「音が出らん!」とかいい出して(笑)。そうしたらリード・ギターが、「えーい、せからしか! もうすっぞ!」とかいうて、ベース抜きでバーンと始めたりして。自分も一員でありながら、すごいおかしかったんやけど。演奏したのはストーンズの「ハート・オブ・ストーン」と「レディ・ジェーン」。趣味はよかったけど、落ちました(笑)。
久留米〜福岡、定期券がロックのフリーパス
——その後、 九大には無事、合格されたんですよね。
鮎川

九州大学&ハコバン時代の1970年
レスポールを手にして

九大の入学式の日に、ジ・アタックが今度は[赤と黒]ちいうダンス・ホールに出てると風の便りに聞いとったので、学長の挨拶を聞きながらもソワソワして、終わった途端に出ていったんです。それでジ・アタックに会いにいったら、まだ[赤と黒]のシャッターが閉まっていて、ちょっと時間つぶしに川端ちいうところまで行ったら、後にサンハウスで一緒にやる柴山(俊之)さんがキースちゅうバンドで出てて、ポール・バターフィールドのレパートリーとか、ウィルソン・ピケットの「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」をカッコいいアレンジでやっていて、このバンドもいいなあと思いながら、また[赤と黒]に戻った。今度はシャッターが開いていて、ババババーち2階に上がっていったら、みんないて「ああ、まこちゃん。どうしたんね?」となって、「今日、九大に入学したけえ、今日から福岡にいつでも来られる」といった。
 久留米と福岡ちうのは40〜50分かかる、用もないのに行ける距離じゃないんですね。特別のことがない限りは。でも、僕は通学のために定期券を手に入れたことで、久留米から福岡のフリーパスを手に入れたようなものやったんです。それで「だったら一緒にやれるやん」ちなって、対バンがおるからギター借りて、「もう今日から弾いていき」みたいに。即、準メンバーとしてジ・アタックに入れてもらった。その頃は彼らもリズム&ブルースに食指が動いていて、フォー・トップスやらジェームス・ブラウンやらウィルソン・ピケットやらソロモン・バーグ……ストーンズがアルバムでカヴァーしているようなアーティストを、みんなで一生懸命研究するようになって。
 そこから僕は毎日一緒に演奏して、最終電車に乗るために走って天神駅まで行って、久留米に帰るような生活を68年の夏まで続けたんです。秋にジ・アタックは、まだ外国やった沖縄に仕事で引き抜かれて。そこで僕は一応アタックから離れて、大学に戻ったふりしていたけど、冬に帰ってきたから、また合流しました(笑)。

九州大学&ハコバン時代の1970年。レスポールを手にして

——ちなみに福岡と久留米は、時間的にいうと東京と横浜くらい離れているじゃないですか。文化圏的には違いがあるのでしょうか。
鮎川
全然違います。もう、福岡の一人勝ちですね。久留米は文化の街で、工業の街でもあったけど、田園地帯ですよ。青木繁とか中村八大とか、素晴らしいアーティストが出ていても、ロックでは二番煎じ、三番煎じ。技術も低いし、レパートリーも二番煎じみたいな。そんなに目立ったバンドがいるわけではなかった。
——ちなみに北九州は?
鮎川
北九州はもうちょっとレベルが福岡に近い。福岡と北九州のほうが、東京と横浜ちいう感じ。
——当時、久留米でロックやブルースの情報を入手するには、中心となるのはやはりFENになるのでしょうか。
鮎川
FENは必ず聴きよったし、特にケイシー・ケイサムの『アメリカン・トップ40』は、必ず聴いとかんといかんのです。でも、ビートルズやらローリング・ストーンズのレコードも、日本の発売日にちゃんと久留米のレコード屋にもあったし、レイ・チャールズもレコード番号調べて頼めば入ってくるから。レコードを輸入盤で聴くような嗜みはない頃ですしね。
——ロックやブルースのファンというのは、周りのお友達からすると特殊なことでしたか。
鮎川
仲間はいました。友達の家に行って、「ほう、ヤードバーズがあるやん。聴かせろ」とか、別の友達のところへ行って、「キンクスがあるけん、聴こう」とか。ボブ・ディランは全部持っとる友達がいたり。バーズやらグレイトフル・デッドもあったし。そういう友達のところを僕はグルッと回りながら、奨学金をもらっていたようなものです。実際に自分がお金を出して買うよりも、人のもんは自分のもんみたいな感じで(笑)。いい友達がいっぱいおったけん。
 だいたいはインテリやね。やっぱりロックにアンテナ立てとるのは、ロックの向こう側にある社会の変化も知りたいちいうことやから。ケルアックの『路上』は読まないかんとか、ギンズバーグもちょっとは齧っとかんととか。そういう情報をお互い持ち寄ったりして。
 でも、今になって思えば、バンドをやっていて、そげな感じの人間はなかなかいなかったね。後にサンハウスをつくろうちゅうて集まった柴山さん、ジ・アタックにいた篠山(哲雄)さん、浦田(賢一)、バイキングというバンドにいた浜田(卓)くんくらいで。久留米では自分たちの仲間だけやったし。福岡の他のバンドがどんなことしよったかも全然知らんし、たぶん話も合わんやろうし。

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